「プロ野球代理人」大友良浩は、社会人野球でプレーしたあと3年で司法試験に合格した
スポーツを支える仕事〜プロ野球代理人/大友良浩
日本のプロ野球選手に移籍の自由=FA(フリーエージェント)の権利が与えられたのは1993年。その後、2000年のシーズンオフに、代理人による交渉が正式に認められた。
プロ野球選手の待遇が格段によくなり、5億円を超える年俸を稼ぐ選手はもう珍しくなくなった。球団に対して、選手たちの要望を伝える代理人が重要な役割を果たしていることは間違いない。
2011年、調停委員会に出席した当時西武の涌井秀章(写真右)と大友良浩弁護士 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【立教大時代に東京六大学で2度のリーグ優勝】
プロ野球選手の代理人をつとめる弁護士の大友良浩は言う。
「代理人による交渉が認められた当時、プロ野球の代理人をしている弁護士自体が少なかったですし、どんな仕事なのかを説明できる人もほとんどいなかったんじゃないでしょうか」
立教大学野球部時代に東京六大学で2度のリーグ優勝に貢献し、社会人野球(リクルート→ローソン)でもプレーした大友は28歳の時、会社を辞めて司法試験の勉強を始めた。
「野球を引退したあとでリクルートに戻ったとして、どんな仕事ができるだろうかと思いました。私は理系で物理専攻だったので、特許の出願などをする弁理士の資格を取ろうかと考えたのですが、弁護士資格を取れば、弁理士、税理士としても仕事をすることができるとわかりました。もう野球で一番上を目指すことはできないけど、司法試験の合格を目指してみようと決意しました。終わってみれば3年間でしたが、自分にとっては長い長い3年でした」
大友は2002年に弁護士登録をして、晴れて弁護士として活動するようになった。
「私も機会があれば代理人をやってみたいとは思っていましたが、代理人を立てて交渉したいという選手がいなければできません。仕事は縁のものですから」
FA制度の導入から10年ほどが経ち、スター選手の流出を避けたい球団側が複数年契約にも応じるようにもなった。大友は言う。
「でも、2000年代の前半は、球団と選手が対等とは言えませんでした。球団と対立することで、選手が得をすることは少ないですから。その後、少しずつ選手の希望が通るようになっていきました」
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著者プロフィール
元永知宏 (もとなが・ともひろ)
1968年、愛媛県生まれ。 立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。 大学卒業後、ぴあ、KADOKAWAなど出版社勤務を経て、フリーランスに。著書に『荒木大輔のいた1980年の甲子園』(集英社)、『補欠の力 広陵OBはなぜ卒業後に成長するのか?』(ぴあ)、『近鉄魂とはなんだったのか? 最後の選手会長・礒部公一と探る』(集英社)など多数。2018年から愛媛新聞社が発行する愛媛のスポーツマガジン『E-dge』(エッジ)の創刊編集長