篠塚和典が明かす松本匡史との決まりごと 長嶋茂雄監督の強い意向に「大変そうだった」
松本匡史 前編
(連載5:「元気ハツラツ」中畑清の素顔「ミスターをかなり意識していた」>>)
長らく巨人の主力として活躍し、引退後は巨人の打撃コーチや内野守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任した篠塚和典氏が、各年代の巨人ベストナインを選定し、各選手のエピソードを語る。
以前選んだ「1980年代の巨人ベストナイン」のなかで5人目に語るのは、青い手袋を着用していたことから"青い稲妻"の異名を取り、セ・リーグのシーズン最多盗塁記録(1983年に76盗塁をマーク)を持つ松本匡史氏。前編では入団当初の印象や1、2番コンビを組んだ際のエピソードを聞いた。
土井正三(左)から指導を受ける松本(中央)と篠塚(右)photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【内野守備は「ちょっと硬さがあった」】
――松本さんは篠塚さんのプロ入り2年目、1976年のドラフト会議で巨人から5位指名されて入団しました。当初の印象はいかがでしたか?
篠塚和典(以下:篠塚) 優しく物静かな印象でしたね。年齢は松本さんのほうが3つ上なのですが、話しかけにくい、といったこともありませんでした。松本さんは(入団3年目に)外野手にコンバートされますが、最初は僕と同じ内野だったので、練習も一緒にやっていました。確か、練習の時はセカンドを守ることが多かったんじゃないかな。
――内野の守備をどう見ていましたか?
篠塚 足が速いことは聞いていたので、その部分はものすごく意識して見ていましたよ。ただ、プレー全体の印象としては中畑清さんと同様に(笑)、ちょっと硬さがあったかなと。
――松本さんは早稲田大卒業後、社会人野球の日本生命に入る予定だったところ、長嶋茂雄監督(当時)の強い希望で巨人への入団が決まったと言われています。やはり"足"に魅力を感じていたんでしょうか?
篠塚 そうだと思います。ミスターはおそらく、V9時代の柴田勲さんのように"足が速くて盗塁ができる選手"が必要だと考えていて、松本さんに注目していたんでしょう。「1番に足の速い選手を据えて戦いたい」という考えは、巨人だけじゃなく当時の日本の野球界全体にあったような気がします。阪急の福本豊さんはその代表格ですね。
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著者プロフィール
浜田哲男 (はまだ・てつお)
千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。