毎年ドラフト候補も指名されず社会人野球で8年。元ソフトバンク攝津正はプロへの思いは消え失せていた (2ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro
  • photo by Sankei Visual

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 秋田経法大付高(現・ノースアジア大明桜高)では甲子園で活躍するなど、攝津は高校時代からそれなりに名前が売れていた。だが、攝津は「もともとコントロールはよくなかった」と振り返る。

「打たれたらムキになって投げていく。勝てるピッチャーではなかったです」

 社会人野球は特殊な世界だ。カテゴリーとしてはアマチュア野球だが、その存在意義はプロ球界に人材を送り込むことではない。従業員の士気高揚を存在意義とし、社会人野球最大のイベント・都市対抗野球大会への出場を最大のモチベーションにしている企業チームがほとんどである。

 そのためチーム内に大エースがいれば、大事な試合は決まってエースばかりが登板する。好不調の波の激しい投手は、必然的に登板機会が限られる。入社当初の攝津もそんな存在だった。

勝てる投手のヒントはダーツ

 転機だったのは入社3年目の夏、投手コーチに阿部圭二が就任したことだった。反復練習を重視する阿部の方針で練習量は3割増しとなり、ブルペンでの投球練習の頻度も大幅に増えた。そんな阿部も攝津の取り組みには舌を巻いた。

「攝津はセンスがあるタイプではなく、努力型の選手でした。毎日ブルペンの同じ場所で投げ込みをして、休んでいる姿を見たことがない。こちらが何も言わなくても、自分で目標を立てて創意工夫ができる選手でした」

 目に見えてわかりやすい「創意工夫」は、投球フォームにあった。右腕のバックスイングがみるみるうちに小さくなり、極端にコンパクトなテイクバックになった。攝津の特徴的な投球フォームは、この時期に形づくられている。

 ヒントになったのは、趣味としてプレーしていたダーツだと攝津は言う。

「ダーツはマウンドより短い距離なのに、同じ動作を続けて正確に投げるのは難しい。野球でも無駄を省いて再現性を高めれば、誤差が小さくなると気づいたんです」

 さらに阿部から「体の一部じゃないボールを扱うには、自分の心もコントロールできないと難しい」と説かれ、常に冷静な精神状態でマウンドに上がるようになった。課題だったコントロールは劇的に改善されたという。

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