2019.03.27

43年前との奇妙な縁。智弁和歌山
「名将」のバトンは受け継がれるか

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo Yoshiyuki

 なぜなら3月28日は、今から43年前(1976年)の春に智弁学園(奈良)を率いていた高嶋が監督として初めて甲子園に足を踏み入れた日だったからだ。札幌商業(北海道)に勝利(5-0)した高嶋の最多勝監督への道はここから始まったのだ。

 本人にこの"偶然"を告げると「ホンマ? 試合のことは覚えとるけど、日にちのことは全然知らんかった」と返ってきた。当時29歳、監督になって5年目でつかんだ甲子園だった。

「私学で3年間甲子園に出られなかった。そろそろ交代というのが頭にあって、その間、辞表を3回書いた。嫁さんにも『クビになったら1年だけ辛抱してくれ。その間に次を探すから』と言うてやっていた時。4年目の秋に近畿大会でベスト8になり、あのセンバツやったんです」

 甲子園に出られない時期、前理事長だった藤田照清の"圧"は容赦ないものだった。

「負けた次の日の朝、理事長の部屋に報告に行ったら『学校潰す気か!』ってボロカス言われて......ドアノブを持ったまま入れんこともあった。大会が終わってすぐ、その日のうちに理事長の家に報告に行った時は会ってもらえず、門前払いされたり。そら、きつかったですよ」

 藤田の圧もあり、高嶋の勝利への執念はさらに加速し、練習はより激しさを増した。4年目の秋には、選手によるボイコットもあった。しかし、それを乗り越えてのセンバツ出場、そして甲子園初勝利だった。

「途中まで全然点が取れんで。選手よりも僕があがっていた。どこにも負けない練習をやってきた自信はあったし、『やったるで!』という気持ちもあったけど、甲子園で戦うことに慣れとらんかった。いつもと違ったんやろうね。ランナーは出るけど点が取れん。やっと少し落ち着いてきた後半に3点、2点と入って5対0。選手に勝たせてもらった、というのがあの甲子園でした」

 試合序盤はサインミスによるスクイズ失敗など、「ちぐはぐな攻めもあった」と言う。

「金属バットが導入されて、たしか3年目。どのチームも今みたいに打球は飛ばんし、守り中心の手堅い野球が主流で、今とは野球が違う......そんな時代でした」