荒木大輔も圧倒。帰る気満々だった池田が甲子園の歴史を塗り替える
1982年の甲子園を制した池田のエースで四番だった畠山 早稲田実業(東京)の1年生、荒木大輔が甲子園に「降臨」した1980年夏。もしかしたら、荒木ではなく別の1年生が主役になっていたかもしれない。
のちにプロ野球でも長く活躍した畠山準(ひとし)は、名監督として知られていた池田(徳島)の蔦文也(つた・ふみや)が「5回連続で甲子園に行ける」と語ったほどの逸材だった。しかし、1年夏は徳島大会の決勝まで進みながら、鳴門に1点差で敗れた。3回に満塁の場面でリリーフ登板した畠山が押し出しで与えた1点が決勝点になった。
畠山がその試合を振り返る。
「あの試合は一番悔いが残りました。『甲子園に出ていたら背番号1をもらう予定だった』と、後になって蔦先生から聞きました。あそこで勝っていたら人生が変わっていたかもしれない」
蔦が率いる池田は、「さわやかイレブン」と呼ばれた1974年春のセンバツで準優勝、1979年夏の甲子園でも決勝戦で箕島(和歌山)に敗れた。1992年に勇退するまで甲子園通算37勝を挙げる名将も、そのときはまだ全国制覇を果たしていなかった。
「一番速い球を投げるのがエース。一番遠くへ飛ばすのが四番」という方針を持っていた蔦の、初の日本一をつかむための"秘密兵器"が畠山だった。
しかし、甲子園は遠かった。畠山は言う。
「3年生の夏まで可能性がある5回のうち、2回か3回かは甲子園に行けるだろうと僕たちも思っていました。だから、それまで勝てなかったことに対してプレッシャーを感じていました」
予選を勝ち上がることができず、畠山は野球ファンにとって「まだ見ぬ大物」だった。しかし評判だけは全国にとどろいていたため、1982年夏の甲子園出場が決まったとき、池田は「西の横綱」と呼ばれたのだ。
「徳島大会の決勝で徳島商業に6-3で勝ったんですが、ゲームセットの瞬間に覚えたのは『やっと勝てた・・・・・・』という安堵感でした。甲子園で勝とうなんて、そのときは全然思っていなかった。"甲子園の呪縛"から解き放たれた。ただそれだけだったんです」
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