【平成の名力士列伝:水戸泉】豪華な塩まきと取り口で多くのファンの心を掴んだ名関脇の激動の相撲人生 (2ページ目)
【大ケガを克服して掴んだ劇的な初優勝】
土俵上の豪快な姿とは裏腹に、性格はいたって温厚。いつも静かな笑みを浮かべ、話し声は小鳥がさえずるように優しい。入門直後は、厳しい稽古に耐えられず、母親に電話で「やめたい」と泣き言を言っては励まされたという。
その後の土俵人生も試練の連続。何度もヒザのケガに見舞われたほか、盲腸炎をこじらせて命が危ぶまれたり、自ら運転する自動車で事故を起こしてケガをして休場したこともあった。しかし、気弱な若者には、腐らずに試練と向き合う辛抱強さがあった。一つひとつ、乗り越えるなかで、たくましく成長していった。だからこそ、大ケガからの再起も果たせた。
努力が報われ、大きな花を咲かせたのは平成4(1992)年7月場所。上位と総当たりする西前頭筆頭という難しい地位で奮戦し、13日目を終わって2敗で単独首位に立っていた。とはいえ、霧島と小錦の両大関と小結・武蔵丸、実力者の3人が1差の3敗で追っている。逃げきるのは簡単ではないと思われた。しかし、14日目、平幕・貴ノ浪に勝って単独首位を守ったあと、3敗の3人が次々と敗れ、気がつけば初優勝決定。支度部屋で弟の梅の里と涙を流しながら抱き合った。翌日の千秋楽、賜盃を手にした横には、故郷の茨城県から駆けつけた母の姿もあった。試練に耐え、真摯に土俵を務めてきた姿を、雲の上から見守っていた神様がくれたご褒美のような、劇的な初優勝だった。
その後も、長く土俵を務めた後、平成12(2000)年9月場所限りで引退。錦戸部屋を創設して幕内水戸龍などを育てている。
トレードマークとなった大量の塩まきを始めたのは、新十両の昭和59(1984)年5月、委縮していた姿を見た年上の付け人からの「塩くらい景気よくまいたらどうですか?」との助言を素直に受け入れ、弱気が吹き飛んだからだという。それからも、土俵に上がるたびに、初心を忘れず、気持ちを奮い立たせるために、大量の塩をまき続けた。そんな土俵への真摯な思いが伝わったからこそ、水戸泉の塩まきは、海も越えて、多くの人の心をとらえたのだろう。
【Profile】水戸泉眞幸(みといずみ・まさゆき)/昭和37(1962)年9月2日生まれ、茨城県水戸市出身/本名:小泉政人/しこ名履歴:小泉→水戸泉/所属:高砂部屋/初土俵:昭和53(1978)年3月場所/引退場所:平成12(2000)年9月場所/最高位:関脇
著者プロフィール
十枝慶二 (とえだ・けいじ)
1966(昭和41)年生まれ、東京都出身。京都大学時代は相撲部に所属し、全国国公立大学対抗相撲大会個人戦で2連覇を果たす 。卒業後はベースボール・マガジン社に勤務し「月刊相撲」「月刊VANVAN相撲界」を編集。両誌の編集長も務め、約7年間勤務後に退社。教育関連企業での7年間の勤務を経て、フリーに。「月刊相撲」で、連載「相撲観戦がもっと楽しくなる 技の世界」、連載「アマ翔る!」(アマチュア相撲訪問記)などを執筆。著書に『だれかに話したくなる相撲のはなし』(海竜社)。
2 / 2