ベテラン記者は見た。「日本の
金メダル候補3人」が散った長野の悲哀
短期連載・五輪記者オリヤマの追憶 長野(1998年)
1972年の札幌大会以来、26年ぶりに日本で冬季五輪が開催された、1998年の長野五輪。国の威信をかけた強化が実を結び、日本は歴代最多となる10個のメダルを獲得した。
その半分にあたる5個が金メダルだったが、やはり印象深いのは、ジャンプのラージヒル団体での金メダル、特に原田雅彦の"起死回生"のジャンプだ。
金メダル獲得を喜ぶ(左から)原田雅彦、岡部孝信、斉藤浩哉、船木和喜の日本ジャンプ陣 前回の記事で記したように、原田は1994年のリレハンメル五輪の同競技において、最後の1本が"大失敗ジャンプ"となり、日本は金メダルを逃している。大会後には一部から大きなバッシングを浴びることになり、原田自身も翌シーズンはどこか「心ここにあらず」といった感じだった。
それでも、原田は自国開催の五輪に合わせて調子を上げ、再び日の丸をつけて大舞台に戻ってきた。
最初のノーマルヒル個人では5位に終わったが、続くラージヒル個人では銅メダルを獲得。メダルが確定した瞬間、メディアのミックスゾーンにいた原田は、私に抱きついて「よかったぁ、よかったぁ」と何度も口にした。それほどに、原田は大きなプレッシャーを抱えていたのだ。
その2日後の2月17日、いよいよ"天王山"のラージヒル団体の幕が切って落とされた。
競技当日、白馬ジャンプ競技場は大雪が降っていた。私はジャンプ台のカンテ(踏み切り台)の脇から競技を見ていたが、スタンバイする選手の姿はまったく見えず、助走の音が先に聞こえてくるほどだった。後で聞いた話だが、選手側からもコーチがスタートの合図を出す旗が見えないくらいの最悪のコンディションだったという。
雪は激しさを増す一方で、日本の3人目である原田雅彦が1本目を飛ぶ頃には助走路に雪が積もっていた。助走の速度が上がるはずもない状況でのジャンプは79.5mの低空飛行。その場にいた誰もが、4年前の悪夢を思い起こしたはずだ。
しかし、このときの原田のジャンプは"事故"のようなもので、日本には、岡部孝信、斉藤浩哉、船木和喜と、そのシーズンでは余裕でトップ10に入る選手が揃っていた。1本目を終えた時点で日本は4位だったが、2本目で逆転することは決して難しくなかったのだ。
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