日本とブラジルサッカーの関係はいつから始まった? 1967年パルメイラスとネルソン吉村の衝撃 (4ページ目)
【日本サッカーの意識を変えたネルソン吉村】
そんな状況を覆したのが、1967年、パルメイラス来日とほぼ同時にやって来たネルソン吉村という19歳の若者だった。
サンパウロの日系人リーグで活躍していた吉村は、たまたまヤンマーディーゼルの現地子会社に勤務していたため、本社への転勤という形で来日。JSL初の外国人選手として登録された(後に日本国籍を取得し、吉村大志郎として日本代表としても活躍)。
それまで弱小だったヤンマー(セレッソ大阪の前身)だったが、1967年には早稲田大学を卒業した釜本を獲得しており、吉村はそのテクニックを駆使して釜本と互いに信頼する相棒として活躍。ヤンマーは一躍JSLの強豪となって、1968年度の天皇杯(決勝は1969年1月1日)で優勝。1971年にはJSLでも優勝を遂げた。
吉村に続いて闘志あふれるジョージ小林や、JSL初の黒人選手カルロス・エステベスも来日。個人技を生かして釜本の豪快なゴールシーンを演出するヤンマーのサッカーは、絶大な人気を集めたものだ。
パルメイラスの選手たちの超絶テックニックを見ても、ほとんどの人は「さすがブラジル人。日本人には無理」と思っていた。
だが、日系人の吉村は、姿かたちはまったく日本人と同じだった。その吉村が、ブラジル製の柔らかくて軽そうなシューズを履いて足裏でボールを引くような、当時の日本では考えられないような柔らかなボールコントロールを披露するのだ。そんなプレーを見せつけられたのでは、もう「日本人には無理」とは言えなくなってしまう......。
吉村のプレーは見ていて楽しく、ヤンマーを強豪チームに引き上げただけでなく、日本のサッカー関係者の意識を変えるきっかけともなり、その後の日本サッカーの歴史を変えていくことになる。
その後の日本のサッカーとブラジルの関係については、次回のコラムに譲ることにしよう。
著者プロフィール
後藤健生 (ごとう・たけお)
1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2022年12月に生涯観戦試合数は7000試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。
【写真】Jリーグの歴代外国人助っ人たち
4 / 4