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日本とブラジルサッカーの関係はいつから始まった? 1967年パルメイラスとネルソン吉村の衝撃 (3ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【1967年にパルメイラスが来日】

 しかし、日本のサッカー界とブラジルとの密接な関係は、Jリーグができてから始まったものではない。日本とブラジルの関係は遠く60年近く前に始まっているのだ。

 1964年の東京五輪で日本代表が活躍し、翌1965年に初めての全国リーグとして日本サッカーリーグ(JSL)が開幕。たちまち「サッカーブーム」と呼ばれる現象が起こって、JSLの試合で国立競技場に4万人の観衆が集まることもあった(ただし、主催者発表の数字)。

 1966年にはイングランドでW杯が開催され、その記録映画「ゴール」も日本全国の映画館で上映されたが、そこには欧州勢による暴力的なタックルで倒されたペレが涙を流しながら退場していくシーンが映し出されていた。

 1967年には、ブラジルからサンパウロの名門パルメイラスが来日し、東京の駒沢陸上競技場で日本代表と3試合を戦った。南米のトップクラブが来日するのは、もちろん初めてのことだった。

 当時、僕はまだ中学生2年生だったので、水曜日の夕刻に行なわれた第2戦は観戦に行けなかった。学校から大急ぎで帰宅してテレビ観戦のスイッチを入れたら、すでに試合は始まっていた。そして、なんとこの試合、小城得達のPKと釜本邦茂のゴールで2点を奪った日本が勝利した。当時の日本代表はスピードのある欧州勢は苦手だったが、ゆっくりボールを回す南米スタイルに対しては対抗することができていたのだ。

パルメイラス初来日時の試合のチケット(画像は後藤氏提供)パルメイラス初来日時の試合のチケット(画像は後藤氏提供)この記事に関連する写真を見る 日曜日に行なわれた初戦と第3戦は、もちろん僕も駒沢まで行って生観戦した。この2試合はパルメイラスがともに2対0のスコアで勝利したのだが、試合前のウォーミングアップの時から驚きの連続だった。

 空中高く飛んできたボールを、ジャンプしたパルメイラスの選手が足先でピタリとコントロールしたり、カカトなどさまざまな部位を使ってリフティングしたり、そんなテクニックにスタンドからは驚嘆の声があがり続けた。

 現在と違って、当時の日本人選手のテクニックのレベルは低かった。「ボールテクニックでは韓国はもちろん、東南アジアの選手にも敵わない」という前提の下、日本の選手は運動量で対抗して戦っていた時代だった。

 コーチたちは個人技を向上させることを諦めていたし、サッカー記者たちは「日本人がサッカーが下手な理由」を解説するのも仕事のうちだった。

 日本人が畳の上の生活をしているからだとか、日本の舞踊とブラジルのサンバのリズムの違いが原因だとか、農耕民族と狩猟民族の違いだといった、さまざまな"怪説"が飛び交っていた。

 三笘薫や久保建英が、プレミアリーグやラ・リーガのDFを翻弄する姿を見慣れた今の若いサッカーファンには想像もできないことだろうが......。

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