久保建英が号泣 東京五輪はコロナ禍に泣いたのか、笑ったのか――もったいなかった自国開催大会
【短期連載】五輪サッカープレイバック
第4回/2021年東京オリンピック
パリ五輪開幕までまもなく――という状況を受けて、五輪サッカーの歴史を少し振り返ってみたい。ここでは、直近4大会における選手選考や成績、さらにはその後の選手の活躍などを顧みつつ、当時の時代背景や、現在との違いなどに迫ってみたいと思う。第4回は、新型コロナウイルスの感染拡大によって1年延期され、2021年に開催された東京五輪だ――。
東京五輪、メダルを逃して涙する久保建英 photo by JMPAこの記事に関連する写真を見る パリ五輪の登録メンバー選考において、選手が所属するヨーロッパ各クラブとの交渉がうまくいかず、招集を断念せざるを得ないケースが少なからずあったと聞く。結局、日本はオーバーエイジ(OA)枠の選手抜きの"純U-23代表"でパリ五輪に臨むこととなった。
そんな話を聞いていると、やはり自国で開催された東京五輪は、日本側の力の入れ方もさることながら、ヨーロッパのクラブ側の配慮も大きかったことを実感する。
実際、日本サッカー協会の反町康治技術委員長(当時)は、「東京でやる五輪だというバックボーン」がヨーロッパでプレーする選手を招集する際の交渉に、プラスに働いたことを認めている。
吉田麻也、酒井宏樹、遠藤航という、そのときのA代表の主力中の主力選手を3人揃え、しかも、大会直前にチームに合流させるのではなく、6月の活動から参加させたという点において、その円滑さは過去に例がない。
久保建英を筆頭に、五輪世代の選手のなかにも当時すでにヨーロッパでプレーしている選手が少なくなかったが、彼らとの交渉もまた、まったくと言っていいほどもめることなく、望む選手を招集することに成功した。
当時の反町委員長は、「過去の経験から学び、周到に準備してきたからできたこと」だとも話していたが、パリ五輪での選手選考を見ていると、やはり東京五輪という特別な大会だからこそできた部分は大きかったのだろう。
さらに時間をさかのぼれば、森保一監督の就任が決まり、東京五輪を目指すチームが立ち上げられて以降、ヨーロッパ、南米、北中米と、積極的に海外遠征を重ねてきたのも、東京世代の特徴である。
開催国として出場できる東京五輪ではアジア予選を突破する必要がなく、本番だけを見据えてチーム作りを進めればいいことは、その活動において大きかった。田中碧のような、2017、2019年U-20ワールドカップのいずれにも出場していない選手が台頭してきたのは、新戦力を登用しながら海外遠征を重ねた成果だっただろう。
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