権藤博は近鉄の投手コーチ時代に監督の仰木彬と対立 「これ以上いたら、選手の信頼をなくし、選手を守れない」と2年で退団した
セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
権藤博が明かす1イニング限定の守護神が誕生するまで(前編)
「大魔神」と呼ばれた1998年の佐々木主浩は、抑えというよりチームの柱だった──。当時のセットアッパー"ヒゲ魔神"こと五十嵐英樹は、そう回想した。野手も含めたチーム全体に「佐々木さんにつなげ」という思いがあり、球団38年ぶりの優勝、日本一が達成されたという。
では、その横浜(現・DeNA)を率いた監督の権藤博は、抑えがチームの柱になるほどの投手陣をいかにしてつくり上げたのか。中日での現役時代は故障の影響で短かったが、引退後は中日、近鉄、ダイエー(現・ソフトバンク)で投手コーチを歴任。97年から横浜でバッテリーチーフコーチを務め、オフに監督に昇格した権藤に聞く。
吉井理人(写真右)の投球を見つめる近鉄投手コーチ時代の権藤博 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【佐々木主浩を1イニング限定にしたワケ】
「監督になってまず決めたのが、佐々木の使い方です。『こいつは潰しちゃいかん』と思ったから、原則1イニング以上は投げさせない。ただし、『8回のピンチでツーアウトからクリーンアップが絡んだときだけはいってくれ』と佐々木に言って、了解をとっていました」
「潰しちゃいかん」とは、権藤自身、投手として短命に終わった経験に基づく。プロ入りは61年、佐賀・鳥栖高から社会人のブリヂストンタイヤを経て入団すると、いきなり35勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得。当然の新人王に選出された。登板数69で44試合に先発し、32完投、12完封、429回1/3を投げて310奪三振、防御率1.70はすべてリーグトップだった。
翌62年も30勝で最多勝に輝いた権藤だったが、61登板で362回1/3。明らかな登板過多で右肩を痛めた3年目は10勝、4年目は6勝と成績が急下降して野手に転向。68年限りで現役を退いた。ゆえにコーチになると「肩は消耗品」が持論になったが、佐々木の場合は94年に右ヒジを手術し、腰にも不安があったことが考慮され、原則1イニング限定になった。
「もうひとつ、中日のコーチの時、監督の近藤(貞雄)さんが『牛島(和彦)は1イニングだ』って言うんだけど、8回から使って打たれたことがよくあったんです。だから自分で監督になったときに『オレは自分の信念は絶対曲げない。8回から佐々木を使うようなことはしない』と思っていたのもあるんです」
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著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など