「試合は熊に追いかけられるような恐怖...」大躍進中のベテランスケーター、アンバー・グレンが明かすADHDとの闘い
GPファイナル女王アンバー・グレン(アメリカ) インタビュー 後編(全2回)
シニア10年目にして、GPファイナル初優勝を遂げたアンバー・グレン(アメリカ)。25歳のベテランスケーターは今シーズン、すべての国際大会で優勝する快進撃を続けている。どんな変化が彼女の中であったのか、そして今後の展望について単独インタビューで伺った。
苦難と闘いながら今季大躍進を見せているアンバー・グレン photo by Kyodo News
【うつ病やADHDを公表】
ーーシニア10年目で、大躍進のシーズンを送っています。まさに開花したという印象です。どんな変化があったのでしょう。
アンバー・グレン(以下同) 私がADHD(注意欠如・多動症)であることはすでに公表しているのですが、それに伴う脳震とうでケガをすることもありました。不安やトラウマなどさまざまな問題を抱えていたのですが、神経療法がうまく進んでいるということが今シーズンの安定につながっています。
ーーヨーロッパやアメリカは、日本に比べて、ADHDについてオープンですね。いつ頃からその症状に気づいたのでしょう?
幼い頃からわかっていました。ただ、実際に検査を受けたのは19歳の時です。小学校の頃は、気が散ってしまってみんなと一緒の授業を受けていられなくて、ひとりで授業を受けたりしていました。でも1対1だと、ちゃんと話を聞けるんです。そんな感じだったので、家族も「大きくなったら治るかもしれないから様子を見よう」ということで、本格的な治療をせずにいました。でもよくはならなくて、19歳で診断を受けました。
ーー診断された時の気持ちはいかがでしたか? また、その後どんな治療を行なっていったのでしょう?
判明したことで、むしろ日常生活はラクになりました。以前の私は、頭の回転が速すぎて、言葉が不明瞭になったり、物をどこに置いたか忘れたり、不安発作を起こしていました。でも理由やその対処がわかったことで、前に進めたんです。16歳の時にうつ病と不安神経症と診断された時もオープンにしましたし、不安神経症とうつ病の薬を服用してきました。それなのでADHDのこともオープンにし、薬の治療を始めたのです。
1 / 3
著者プロフィール
野口美惠 (のぐち・よしえ)
元毎日新聞記者。自身のフィギュアスケート経験を生かし、
ルールや技術、選手心理に詳しい記事を執筆している。 日本オリンピック委員会広報としてバンクーバーオリンピックに帯 同。ソチ、平昌、北京オリンピックを取材した。主な著書に『 羽生結弦 王者のメソッド』『チームブライアン』シリーズ、『 伊藤みどりトリプルアクセルの先へ』など。 自身はアダルトスケーターとして樋口豊氏に師事。20 11年国際アダルト競技会ブロンズⅠ部門優勝。