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NBA伝説の名選手:ベン・ウォーレス 「史上最高のドラフト外選手」の呼び声高い偉大なるハードワーカー

  • 秋山裕之●文 text by Akiyama Hiroyuki

リング下の守護神として君臨したベン・ウォーレス photo by Getty Imagesリング下の守護神として君臨したベン・ウォーレス photo by Getty Images

NBAレジェンズ連載29:ベン・ウォーレス

プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

第29回は、そのディフェンス力で21世紀初頭のNBAで地位を築き、ドラフト外選手として殿堂入りを果たしたベン・ウォーレスを紹介する。

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【ハードワークでドラフト外からNBAと正式契約】

 NBAドラフトの現行フォーマットで指名されるのは、毎年最大で60名。ドラフトに漏れた選手たちがNBAチームとの正式契約を果たすためには、サマーリーグやトレーニングキャンプ、あるいはワークアウトやGリーグ(下部リーグ)でアピールし、チャンスを掴まなければならない。厳しい世界だ。

 今回紹介するベン・ウォーレスは、"史上最高級の豊作年"と評されている1996年のドラフトで指名漏れとなりながら、NBA史上有数のディフェンダーという評価を確立した選手である。

 1974年9月10日、アラバマ州ホワイトホールで生誕した彼には7人の兄がおり、11人きょうだいの10番目だった。兄たちよりも身長が低くて若かったため、バスケットボールをしていてもパスされることはなかった。

「ボールが欲しければスティールするかリバウンドをもぎ取る、あるいはアウト・オブ・バウンズになりそうなボールを救い出すしかなかった」と、当時を回想するが、ウォーレスは、高い身体能力を備えており、母から「自信をもって胸を張り、めげずにやりなさい」という教えを支えに実力を磨いていった。

 今でも兄たちよりも身長が低いウォーレスだが、家族全員から学んだ"ハードワーク精神"も手伝って、アメリカンフットボールとバスケットボールで頭角を現す。そして高校時代、1980〜90年代にNBAで活躍したチャールズ・オークリー(元ニューヨーク・ニックスほか/206cm・111kg)が主宰するキャンプへ参加し、NBAのペイントエリアで戦ってきたオークリーと好勝負を演じたことで評価され、バスケットボールへ専念することになる。

 大学は最初の2年をオハイオ州クリーブランドにあるカヤハガ・コミュニティ・カレッジで過ごし、3年次からはオークリーの母校バージニア・ユニオン大学へ転入。2年間で平均13.4得点、10.0リバウンド、3.6ブロックを残した。

 ウォーレスが大学卒業を機に迎えた1996年のドラフトは、歴史的に見ても豊作と呼べる年だった。全体1位指名のアレン・アイバーソン(元フィラデルフィア・セブンティシクサーズほか)、5位指名のレイ・アレン(元ミルウォーキー・バックスほか)、13位指名のコービー・ブライアント(元ロサンゼルス・レイカーズ)、15位指名のスティーブ・ナッシュ(元フェニックス・サンズほか)と、殿堂入りを果たした選手がズラリと顔を揃えていた。

 そのドラフトをテレビで視聴していたウォーレスは、自分の名前が呼ばれなかったことを確認すると、ジムへ向かった。公称206cm(実際は約201cmと言われている)はインサイドを主戦場とする選手としては、ドラフト指名を受けるには高さ不足だった。そんなウォーレスへ手を差し伸べたのが、当時ワシントン・ブレッツ(現ウィザーズ)のGM(ゼネラルマネージャー)で、現役時代に201cm・111kgのアンダーサイズのセンターとして活躍したウェス・アンセルドだった。

 チャンスを得たウォーレスはNBA選手としてワシントンで3シーズンを過ごし、1999-00シーズンにオーランド・マジックで先発の座を掴み、平均8.2リバウンド、1.6ブロックを残すと、2000年夏のトレードでデトロイト・ピストンズへ移籍。そこでNBAのトップディフェンダーとしての階段を上り始めることになる。

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著者プロフィール

  • 秋山裕之

    秋山裕之 (あきやま・ひろゆき)

    フリーランスライター。東京都出身。NBA好きが高じて飲食業界から出版業界へ転職。その後バスケットボール雑誌の編集を経てフリーランスに転身し、現在は主にNBAのライターとして『バスケットボールキング』、『THE DIGEST』、『ダンクシュート』、『月刊バスケットボール』などへ寄稿している。

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