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NBA伝説の名選手:クリス・マリン 1980〜90年代の名シューターは、ドリームチームの一員としても活躍

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

日本のバスケファンからも高い支持を受けていたマリン photo by Getty Images日本のバスケファンからも高い支持を受けていたマリン photo by Getty Images

NBAレジェンズ連載22:クリス・マリン

プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

第22回は、ゴールデンステイト・ウォリアーズ時代は「Run TMC」の一角として一世を風靡し、1980〜90年代のサウスポー・シューターとして名を馳せたクリス・マリンを紹介する。

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【NYのプレーグラウンドからトップシューターへ】

 ニューヨーク州のブルックリンで生まれ育ったクリス・マリンは、1970年代にニューヨーク・ニックスのスター選手だったウォルト・フレイジャーとアール・モンローのプレーを見て学ぶ少年時代を過ごした。しかし、NBAで背番号を17にしたのは、ニックスのライバルであるボストン・セルティックスが生んだ偉大なフォワード、ジョン・ハブリチェックに対する敬意があったのが理由だった。のちにドリームチームでチームメイトとなるラリー・バード(セルティックス)の存在も、シュート力が最大の武器だったマリンにとって大きな影響を与えた。

 左利きのマリンは白人だが、黒人が多く住むブロンクスやハーレムでプレーするなど、ニューヨークシティで最高レベルと呼ばれる選手たちと競い合ってきた。高校のキャリアをパワー・メモリアルでスタートし、その後ゼイビアンに転校。高校で最終学年となる1981年には、ニューヨーク州のクラスAでチャンピオンシップを獲得する。

 マリンはNCAA(全米大学体育協会)で名将と言われたルー・カーネサッカコーチからの勧誘を受け、ビッグイースト・カンファレンス所属で、自宅から近いセント・ジョンズ大に進学。1年生の時からスターターとして活躍すると、2年次から3シーズン連続でビッグイーストの年間最優秀選手賞を受賞した。

 当時のビッグイーストには、1985年のNBAドラフトで全体1位指名を受けるパトリック・ユーイング(ジョージタウン大、ニックスに入団)がいたが、マリンは大学4年間でのFG成功率55%、2年生以降3シーズン連続で1試合平均19点以上を記録するなど、大黒柱としてチームを牽引していたことが、3年連続で選出された理由と言える。

 セント・ジョンズ大でのラストシーズン、マリンは平均19.8点を記録。15勝1敗でビッグイーストのレギュラーシーズン制覇、NCAAファイナルフォー(全米大学選手権準決勝)進出の原動力になる。地区準決勝(NCAA3回戦相当)のケンタッキー大戦で30点を奪うなど、ファイナルフォーまでの4試合中3試合で25点以上をマークしていた。ファイナルフォーの相手は、レギュラーシーズンとカンファレンス・トーナメントの対戦で1勝2敗と分が悪かったジョージタウン大。セント・ジョンズ大は18本のターンオーバーを犯したのが致命傷となり、59対77で大敗を喫した。

「厳しい試合だった。我々は最初の対戦で勝ったが、彼らはすばらしいチームであり、パトリック(・ユーイング)が支配的だった。このようなすばらしいシーズンを過ごしたのに、こんな試合になってしまったのは辛いけど、ジョージタウンは我々よりもいいプレーをしていた」

 ユーイング率いるジョージタウン大との一戦をこう振り返ったマリンは、相手の厳しいディフェンスもあって8本しかショットを打てず、わずか8点で大学のキャリアを終えた。

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著者プロフィール

  • 青木 崇

    青木 崇 (あおき・たかし)

    1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。

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