風間八宏が語る46年前のサッカー日本代表「夢の中盤」 香港の観客も拍手した若きテクニシャンたち
日本サッカーの知られざる歴史
1980年スペインW杯アジア1次予選 前編
100年以上の歴史を誇る日本サッカーには、知られざる歴史がある。46年前に香港で行なわれたスペインW杯アジア1次予選。低迷していた日本代表に突如テクニカルな「夢の中盤」が出現した。ベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、その中心だった風間八宏氏を取材。当時の様子を紹介する。
風間八宏氏に46年前の日本代表を語ってもらった photo by Torao Kishikuこの記事に関連する写真を見る
【弱体化していた日本代表】
1980年12月から翌81年1月にかけて、当時はまだ英国領だった香港でスペインW杯アジア1次予選が集中開催された。
しかし、当時の日本ではサッカーのW杯に関心を持つ人は少なかった。この時筑波大学1年生(19歳)だった風間八宏(現、南葛SC監督)はこう述懐する。
「(W杯予選といっても)中学の時にテレビで見た1974年W杯とはつながってなかったですね。これを勝ち抜いていったら(フランツ・)ベッケンバウアーとやれるとか、(ヨハン・)クライフとやれるとか、何もつながってないですよ。別の大会だと思っていました。W杯は、やっぱりテレビで見るものでしたね」
風間のような有名選手にとっても「世界」は遠い存在だったのだ。
前年に日本で開催されたワールドユース大会(現、U-20W杯)に参加して、優勝したアルゼンチンのディエゴ・マラドーナらのプレーに触発された風間は、日本リーグ(JSL)の実業団でプレーする気はなかった。実際、筑波大学を卒業してから西ドイツに渡るのだが、W杯を身近なものとして感じたのは渡独してからだったという。
しかし、その後は西ドイツで活躍しても代表招集の声はかからず、風間にとってのW杯挑戦はスペイン大会予選が最初で最後となってしまった。
W杯への関心は高くなかったから、取材で香港に派遣されたのは専門誌のカメラマンひとりだけだった。写真を撮りながらレポートも書くのである。
もちろん、テレビでも、ラジオでも中継などはなく、新聞紙面での扱いも小さかった。
無理もないことだ。
1968年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得した後、「メキシコ組」が引退するとともに日本代表は弱体化。W杯はもちろん、五輪でもアジア予選を突破できない状態が続いていた。
1980年3月にマレーシアの首都クアラルンプールで行なわれたモスクワ五輪最終予選でも、日本は韓国、マレーシアの後塵を拝して敗退。
日本代表は五輪予選終了後に渡辺正が新監督に就任して代表の若返りを図った。五輪予選で負けると4年後の五輪を目指して新たなサイクルが始まる......。当時の日本では、W杯予選はあくまで経験を積むための場でしかなかったのだ。
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著者プロフィール
後藤健生 (ごとう・たけお)
1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2025年、生涯観戦試合数は7700試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。




















