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【平成の名力士列伝:貴乃花】「史上最強」の呼び声も高い大横綱 「父の分け身」として鬼気迫る相撲道を歩んだ

  • 荒井太郎●取材・文 text by Arai Taro

鬼気迫る姿勢で相撲道に向き合った貴乃花 photo by Jiji Press鬼気迫る姿勢で相撲道に向き合った貴乃花 photo by Jiji Press

連載・平成の名力士列伝20:貴乃花

平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。

そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、常人の想像を絶する相撲道を地でいき、横綱としても「史上最強」の呼び声も高かった、貴乃花を紹介する。

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【猛稽古のなかで生まれた壮絶なエピソード】

 優勝回数は歴代1位となる白鵬の45回の半分にも及ばない同6位の22回ながら、「平成の大横綱」と言われた貴乃花を史上最強横綱に推す声が、好角家や関係者の間から、いまだ少なからず聞こえてくる。その強さの礎は、今や伝説となっている藤島部屋(当時)の猛稽古にあったことは言うまでもない。

 新弟子時代は早朝4時前には稽古場に降り、四股、鉄砲、すり足といった相撲の基本動作をたっぷりと約1時間かけて入念に行なう。普通ならこの時点ですでに下半身がフラフラになるほどだが、そこから50番以上、多い時で100番以上の稽古に打ち込む。すでに精も根も尽き果て、まともに呼吸もできないほどだが、そんな時は上がり座敷から「まだ苦しくないぞ。ここからが本当の稽古なんだよ」と師匠(元大関・貴ノ花)の檄が飛ぶ。

 やがて意識が朦朧(もうろう)とし、体力も限界を超えると不思議と「苦しい」「疲れた」という感覚が消え、頭が真っ白な状態のまま、体だけが勝手に動くようになる。いわゆる"ゾーン"に入った状態になると、人間の一挙手一投足は無駄のない素直な動きとなる−−−−。

 のちに貴乃花は「相撲に必要な形は、自分で意識して身につけたのではなく、自然と体に染みついていった」と語っているが、もはや常人の想像を超えた壮絶さを物語るエピソードだ。

 のちに大横綱と称される10代の青年力士には、そこまで駆り立てる強烈なモチベーションがあった。父で国民的人気を誇った大関・貴ノ花が、昭和56(1981)年1月場所中に引退。直後にテレビ放映された「さよなら大関・貴ノ花」という特別番組を見終わった息子、当時小学校2年生の花田光司少年は大泣きに泣いた。

 土俵上では体重110キロそこそこの細い体ながら、自身よりはるかに大きな相手にも堂々の真っ向勝負を挑み、大関を史上最長(当時)の50場所を務めた。大関昇進当初から体はボロボロの状態で、自宅にはいくつもの医療器具が置いてあった。特に慢性的な痛みに苦しんだ首を器具で伸ばして痛みを和らげる姿を見て、大関という地位の過酷さ、一家の大黒柱としての労苦が子ども心にしっかりと刻まれた。しかし、そこまで身を削っても最高位には届かなかった。

「とうとう横綱に上がれずに辞めてしまったんだ」

 子どもながらに悔しさ、悲しみを感じた光司少年は「自分が相撲界に入って、父が果たせなかった夢を実現させるんだ」と強く誓った。のちに「自分の人生は大関で土俵人生を終えた父親の分け身だと思っている」と語っている。

 ただ強くなりたい一心で稽古場だけの稽古では飽き足らず、仕事や雑用以外のわずかな自由時間も徹底的に体を鍛えたが、それを気に入らない兄弟子たちから嫌がらせを受けることも当時はあった。そんな時はトイレにダンベルを持ち込んだ。少々窮屈ではあったが、誰にも邪魔されずに集中することができた。

 120キロあった体重が90キロまで落ちたこともあったが、厳しい環境に慣れるにしたがって体つきも大きくなっていき、平成元(1989)年11月場所、17歳2カ月という史上最年少で関取に昇進した。

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著者プロフィール

  • 荒井太郎

    荒井太郎 (あらい・たろう)

    1967年東京都生まれ。早稲田大学卒業。相撲ジャーナリストとして専門誌に取材執筆、連載も持つ。テレビ、ラジオ出演、コメント提供多数。『大相撲事件史』『大相撲あるある』『知れば知るほど大相撲』(舞の海氏との共著)、近著に横綱稀勢の里を描いた『愚直』など著書多数。相撲に関する書籍や番組の企画、監修なども手掛ける。早稲田大学エクステンションセンター講師、ヤフー大相撲公式コメンテーター。

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