【平成の名力士列伝:豊ノ島】抜群のうまさと反骨精神で最後まで走りきった紆余曲折の相撲人生

  • 荒井太郎●取材・文 text by Arai Taro

最後までライバルへの対抗心を抱き続けて奮起した豊ノ島 photo by Kyodo News最後までライバルへの対抗心を抱き続けて奮起した豊ノ島 photo by Kyodo News

連載・平成の名力士列伝14:豊ノ島

平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。

そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、紆余曲折の相撲人生を困難に打ち負けない反骨精神で立ち向かった豊ノ島を紹介する。

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【中学時代から始まった琴奨菊へのライバル心】

 小兵力士であれば、頭から低く当たって相手の懐に潜り込むのが常套手段だが、豊ノ島は170センチに満たない身長にもかかわらず、胸を出すように当たりながら手前で両腕をクロスさせてもろ差し、または左四つを果たすという個性的な立ち合いだった。普通なら自分より大きな相手には不利に働くはずだが、天性のセンスを持ったこの男は違った。しばしば横綱、大関陣を撃破して土俵を沸かせたりもしたが、そこには、やむにやまれぬ"ある事情"により、独特なスタイルを貫かざるを得ない理由があった。

 小1から地元・高知県の宿毛少年相撲クラブで相撲を始めたが、ほどなくして自宅で突発的に引きつけを起こし、意識を失った。ただちに病院へ行くと「てんかん」と診断された。頭に衝撃を受けるリスクのある相撲はあきらめざるを得ない状況だったが、相撲クラブの監督が「頭で当たらないので、相撲は続けさせてやれないか」と豊ノ島の両親に懇願。医師も最終的に「頭で当たらなければ」と条件付きで認めたことから、相撲は続行することになった。

 ハンディを背負うことになったが、週6日の厳しい稽古で磨かれた実力は、小学生のころから全国上位に食い込むほどだった。宿毛市立片島中学2年の時の全中大会では、初出場で初優勝の快挙を成し遂げる。決勝戦の相手校は全国トップレベルの強豪校で、同じ高知県の明徳義塾中。自身は3人制団体戦の先鋒として土俵に上がり、下手投げで勝利したが、この時の相手が、のちに大相撲の世界でライバルとしてしのぎを削ることになる琴奨菊だった。

 高校は明徳義塾高に熱心に誘われるも「打倒! 明徳」の反骨心と"郷土愛"から、地元の宿毛高に進学したが、同学年の相撲部員は自分だけ。メンバー集めから始めなければならないほどの弱小チームだったが、高2の時の四国大会では準決勝で明徳義塾高を破る"大金星"を挙げると、勢いにも乗って優勝を成し遂げて、意地を見せた。

 小6で163センチあった身長はその後、6センチしか伸びず、ぶら下がり健康器に毎日ぶら下がっても効果はなかった。だが、胸を出す立ち合いで大きな相手と対戦しても、決して引けを取ることはなかった。

 のちの琴奨菊が明徳義塾高3年在学中に大相撲入りを表明したことが決め手となり、ライバルを追いかける形で自身も時津風部屋の門を叩くことになった。身長は入門規定に満たなかったため、当時実施されていた第2新弟子検査を経てのプロ入りだった。

 ライバルとはいえ、相手は高校7冠の期待の星で、アマチュア時代の実績はまったく及ばなかったが、プロ入り後は序ノ口の初対戦から序二段の優勝決定戦も含め、4連勝。関取昇進、新入幕はいずれも豊ノ島が先んじた。3度目の入幕となった平成17(2005)年11月場所からは幕内に定着し、前頭9枚目の平成19(2007)年1月場所は横綱・朝青龍と優勝を争い、12勝をマークして初の三賞となる敢闘賞と技能賞をダブル受賞。この場所唯一の三賞獲得力士として、大いに注目を浴びた。

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著者プロフィール

  • 荒井太郎

    荒井太郎 (あらい・たろう)

    1967年東京都生まれ。早稲田大学卒業。相撲ジャーナリストとして専門誌に取材執筆、連載も持つ。テレビ、ラジオ出演、コメント提供多数。『大相撲事件史』『大相撲あるある』『知れば知るほど大相撲』(舞の海氏との共著)、近著に横綱稀勢の里を描いた『愚直』など著書多数。相撲に関する書籍や番組の企画、監修なども手掛ける。早稲田大学エクステンションセンター講師、ヤフー大相撲公式コメンテーター。

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