FAの歴史を振り返る。最初にFA権を行使したのは誰? (2ページ目)

  • 津金一郎●文 text by Tsugane Ichiro photo by Nikkan sports

design by Unno Satorudesign by Unno Satoru 制度が導入されてからFA宣言した選手数を見ると、初年度は5選手しかいないが、翌1994年は16選手に増え、以降は1995年・11選手、1996年・8選手、1997年・11選手と推移し、5年間で合計51選手。しかし、実際に移籍となったのは、別表のとおり17選手しかいない。これは当時、FA宣言しても他球団との交渉テーブルにつくことなく、それまでの所属球団から功労金という名目で再契約金をもらい、契約を更改するケースが多かったためだ。

 そして、これによりプロ野球選手の年俸は急激に高騰することになった。FA制度が導入された1993年には29人もの1億円プレイヤーが誕生。日本経済はバブルが弾けて不景気へと転落し始めていたが、プロ野球界だけは景気のいい話が飛び交っていた。

 FA史を語るうえで欠かせない存在が、長嶋茂雄だ。1993年シーズンから第2次政権を担い、スローガンに『スピード&チャージ』を掲げたが、FA戦線でもスローガン同様、積極的に動き回った。1993年オフは、FA宣言した巨人の槙原寛己に対し、バラの花束を持って自宅を訪問。他球団との交渉の席につく前に残留を決めさせた。すでに40歳を超えていた落合博満(中日)には、「若い選手に生き様を見せてほしい」と、熱烈なラブコールを送り続けて入団を決意させた。落合は1993年12月21日に行なわれた入団会見で、「長嶋監督を胴上げするために来た」と語った言葉どおり、1994年、1996年は古巣・中日とのマッチレースとなったペナントレース優勝に大きく貢献した。

 ただ、長嶋のFA補強熱は、その後も止むことはなく、1994年にはヤクルトから広澤克実、広島から川口和久を獲得。1995年の河野博文(日本ハム)の獲得に際しては、1989年のドラフト2位で獲得した川邉忠義がFA史上初めての人的補償となった。そして、1996年には「僕の胸に飛び込んで来てくれ」のセリフで、吉田義男監督が「タテ縞をヨコ縞にしてでも」と意気込んだ阪神との争奪戦を制し、清原和博(西武)を迎え入れた。

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