NBA伝説の名選手:ポール・ピアース 熟練のスキルと勝利へのあくなき執念で君臨した"稀代の勝負師"
2000年代のセルティックスとして王座も経験したピアース photo by Getty Images
NBAレジェンズ連載31:ポール・ピアース
プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。
第31回は、2000年代のボストン・セルティックスの顔とも言えるポール・ピアースを紹介する。
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【好みのチームのライバルチームでNBA選手に】
2000年代のNBAにはコービー・ブライアント(元ロサンゼルス・レイカーズ)、レブロン・ジェームズ(現レイカーズ)というリーグ史に名を残すスーパースターたちが若くして、君臨していた。
ポール・ピアースは、自身の全盛期に彼らと対等に渡り合ってきた数少ない選手である。
1977年10月13日。カリフォルニア州オークランドで生まれたピアースにはふたりの兄がおり、同州ロサンゼルスの郊外イングルウッドで育った。1980年代といえば、マジック・ジョンソンとカリーム・アブドゥル・ジャバーを中心とした布陣の"ショータイム・レイカーズ"が5度のリーグ制覇を成し遂げた人気絶頂期。
ピアースは「レイカーズとセルティックスのファイナルを観たことがキッカケだった。6、7歳の頃におじさんの家で観てからバスケットボールへハマっていった」とNBAの永遠のライバル対決の思い出を明かし、イングルウッドにある"Ash Park"と呼ばれるエリアでプレー。メキシコ人ばかりで黒人はピアースしかいなかったこともあり、「いつもファウルばかりされていたから、タフになるしかなかった」と、厳しい環境で腕を磨いていった。
その後ピアースはイングルウッド高校を経てカンザス大学へ進学。3年次には平均20.4得点、6.7リバウンドを残して全米有数の選手へと成長した。1998年のNBAドラフトでは上位指名が予想されていたが、まさかの結末と皮肉が待ち受けていた。
この年、ロサンゼルスを本拠地に置くクリッパーズが全体1位でビッグマンのマイケル・オロウォカンディを指名。5位でビンス・カーター(元トロント・ラプターズほか)、9位でドイツ出身のダーク・ノビツキー(元ダラス・マーベリックス)が指名され、ピアースはよりによって"レイカーズのライバル"セルティックスから全体10位で指名されることになる。
何とも複雑な心情となったドラフトだったが、ロックアウトで通常の82試合から50試合の短縮となった1998-99シーズンにピアースは平均16.5得点、6.4リバウンドと即戦力であることを証明し、オールルーキー・ファーストチームに選出された。
キャリア3年目を控えた2000年9月下旬、ピアースはナイトクラブのケンカに遭遇し、仲裁に入るも顔や首、背中を計11箇所も刺されて重傷を負うことになる。しかし、なんと3日後に退院。2000-01シーズンに82試合のフル出場を果たした男は、2001年3月のレイカーズ戦で42得点を奪取。前年王者のシャキール・オニール(元レイカーズほか)から「あそこまでできるヤツだとは知らなかった。ポール・ピアースは"本物(The Truth)"だ」と命名され、自信を増していく。
2002年にプレーオフデビューを果たしたピアースは、カンファレンス決勝まで勝ち進む殊勲者となって輝くも、チームは2005年を最後にプレーオフレースから脱落。2006-07シーズンにはイースタン・カンファレンス最下位の24勝58敗(勝率29.3%)に低迷し、トレードも噂されるほど、セルティックスにおけるキャリアが危ぶまれていた。
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著者プロフィール
秋山裕之 (あきやま・ひろゆき)
フリーランスライター。東京都出身。NBA好きが高じて飲食業界から出版業界へ転職。その後バスケットボール雑誌の編集を経てフリーランスに転身し、現在は主にNBAのライターとして『バスケットボールキング』、『THE DIGEST』、『ダンクシュート』、『月刊バスケットボール』などへ寄稿している。