プリンスホテルの過保護なほどの選手待遇 中島輝士が社会人入りを決めた母のひと言 (4ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by PHOTO KISHIMOTO

 86年、都市対抗初出場時は8番・左翼だった中島だが、翌87年はプロ入りした藤井のあとを継いで4番・一塁。都市対抗予選で打率3割5分、3本塁打とパワーを発揮すると、第一代表で出場した本大会、日本IBM野洲との1回戦で2本塁打を放ち、4打数3安打3打点。準決勝までの全4試合でヒットを打ち、16打数7安打で打率.438、4打点と打ちまくった。

 この大会では、85年入社の小川博文(千葉・拓大紅陵高/元オリックスほか)も2本塁打を放ち、19打数9安打で打率.474、6打点と打棒爆発。中島とともに優秀選手として表彰され、ふたり揃って初めて全日本に選出。8月開催の第14回アジア野球選手権大会に出場する。

 社会人と大学生の連合メンバーが都内で集結した初日。中島は全日本監督の鈴木義信に声をかけられ、驚愕の言葉を聞くこととなった。

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(=敬称略)

中島輝士(なかじま・てるし)/1962年7月27日、佐賀県出身。柳川高、プリンスホテルを経て、1988年ドラフト1位で日本ハムに入団。 92年は115試合に出場し、打率.290、13本塁打、66打点の成績を残し、オールスターにも出場。96年に近鉄へ移籍。 98年に現役を引退したあとは近鉄、日本ハムでコーチ、スカウトを経験。その後も台湾、韓国、四国アイランドリーグplusで指導者として活躍し、20年から京都先端科学大学の野球部の監督に就任

プロフィール

  • 高橋安幸

    高橋安幸 (たかはし・やすゆき)

    1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など

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