プリンスホテルの過保護なほどの選手待遇 中島輝士が社会人入りを決めた母のひと言 (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by PHOTO KISHIMOTO

「それでやってみたら、何も苦労しなくて打てたんです。肩を壊した時はこれも運命だなと思って、プロも断念せざるを得ないのかなと、あきらめかけていたんです。それが稲葉さんのひと言でバッターに転向して、何か自分が生まれ変わったような気がしましたよね」

 当然ながら、バッターとしては同期の藤井らに後れをとったぶん、中島はバットを振り続けた。寮で「よく振るなあ」と言われたこともあったが、少年時代からバットを振ることは楽しかった。誰よりも打ちたいという気持ちが強かったから、まったく苦ではなかった。ただ、中藤義雄(倉敷工高/元近鉄)を筆頭に高校出の野手が成長。都市対抗のメンバーには入れなかった。

【都市対抗ベスト4に貢献】

 一方、84年を前に7名がプロ入りしたプリンスは、他社からふたりのベテランを迎え入れている。34歳の右腕・鈴木政明(岡山・勝山高)と32歳の外野手・中本龍児(近畿大)。いずれも最初は大昭和製紙でプレーし、80年に都市対抗で優勝したが、81年に同社が休部となってヤマハ発動機に移籍。83年にヤマハ発動機も休部となり、同社から揃って加入した。

 鈴木は68年から16年連続で都市対抗に出場中で、2度のドラフト指名も入団は拒否。87年には史上初の20年連続出場を達成し、投手陣を支えた。中本は3番・右翼で活躍しつつ、それまでいなかったまとめ役として貢献。84年限りで現役引退も、同年秋に監督で復帰した石山からコーチに任命された。チームが新体制となり、石山が中島を見る目も変わっていた。

「石山さんとしては、『ピッチャーとして難しいなら社業に』と思われていたみたいです。でも、復帰された時に『テルシーはバッターになってよかった』と喜んでくれて。実際に試合で打ち出したら、『コイツはちょっと違うぞ』みたいなことを言って、周りに広めてくれる。監督であり、勝負師でありながら、何か宣伝部長のようなところがあったと思います。

 やっぱり、早稲田の監督の時に岡田(彰布/元阪神ほか)さんをはじめ、いろんないいバッターを見てきて、目はたしかな方だと思うんです。藤井をいきなり4番で使ったのもそうだし。"ひよっこ"だった僕が全日本に選ばれるとか、石山さんが世に送り出してくれたのかなと。だから、バッターに転向させた稲葉さん、宣伝してくれた石山さん、ふたりとも間違いなく恩師です」

3 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る