プリンスホテルの過保護なほどの選手待遇 中島輝士が社会人入りを決めた母のひと言 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by PHOTO KISHIMOTO

「結局、野球部はね、テーブル動かそうとしたら『おまえら、指挟んだらいかんから見とけ』って言われる。グラスを拭こうとしたら『割れたら大変だ』って止められる。『野球やることがいちばん大事なんだから』って。都市対抗予選で負けたからって、ホテルで働いている皆さん、冷たい目で見るんじゃなくて、優しくしてくれる。過保護なぐらいでしたね」

【右肩の故障により野手転向】

 社業の現場では特別扱いの野球部員だったが、中島自身、3年目の飛躍を目指していた83年、右肩を故障。肩鎖関節下の静脈に血行障害を発症し、長野の病院に4カ月入院する。セ・パ両リーグでチームドクターを務めた整形外科医、吉松俊一に治療を受けていたが、最終的に手術をしても2年間は投球不能と診断された。

「その時、監督の稲葉誠治さんに相談したら、『テル、おまえ、1年だけ野手やってみろ』って言われたんです。当時の社会人はまだDH制じゃなくて、ピッチャーが打席に入ってたんですが、そこで僕がけっこう打っていたこともあったんでしょう。ピッチャー出身の監督さんだったので、投手陣をよく見てくれていたのもあったと思います」

 稲葉は1917年生まれで当時66歳。愛知・旧制岡崎中時代から投手で、東京六大学の慶應義塾大では39年春、40年春のリーグ優勝に貢献した。56年には慶大監督に就任し、同年秋にリーグ優勝。60年から社会人の日通浦和の監督を務め、64年の都市対抗で優勝に導いた。そうした実績を買われてプリンスに招聘されたが、編成面と采配は助監督の石山建一に任せていた。

 だが、その石山が81年途中に辞任。都市対抗予選敗退の責任をとった形だったが、会社とのトラブルで別会社に左遷された。その影響もあって翌82年、都市対抗は予選で敗退。それでも、「投手育成の名人」と呼ばれた稲葉の指導で投手力が改善。83年から2年連続、第一代表で都市対抗に導くことになる。そんな指揮官からの助言で、84年、中島は野手転向を目指した。

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