富栄ドラムが振り返る力士時代 日馬富士の付け人として学んだこと、貴景勝の連勝を止めた取組 (3ページ目)

  • 取材・文●白鳥純一 text by Shiratori Junichi

【貴景勝との対戦で思わぬ驚き】

――どの世界でもそうかもしれませんが、相撲界にもさまざまな特殊なルールがあるそうですね?

ドラム そうですね。角界全体では、着物以外での外出が禁止されていたり、3段目に昇進すると雪駄を履けたり、幕下になると「外套」というコートと博多帯を付けられたり......といったルールがありました。それ以外にも「幕下以上は自室にテレビを置いていい」とか、部屋ごとにもさまざまな規則が設けられています。

――自身も幕下に上がり、服装が変わった時の気持ちを覚えていますか?

ドラム 僕が幕下に上がった時に日馬富士関が刺繍付きの博多帯をくださって、日馬富士関のお母さんからも手作りのカシミアのコートをいただきました。格好が変わっただけなのに、かなり気持ちが引き締まったことを覚えています。

――逆に、相撲部屋に入ってから最もつらかった思い出を聞かせてください。

ドラム 僕は「小学校から相撲をやってきた人たちとの差を、少しでも縮めないといけない」という一心で、普通より少し早い中学校3年生の3学期に相撲部屋に入ったんですが......1年目の厳しい稽古が今でも忘れられません。

 足が上がらなくなるくらい四股を踏む稽古もそうですが、厳しい上下関係もあって、社会のことを知らない子どもがたくさんの大人に囲まれて過ごす環境は、当時の僕には本当にしんどかった。朝から晩まで練習などに追われる日々は"相撲道の修行の一環"でもあるんですけど、やっぱりつらかったですね。

――2008年3月場所(大阪)が初土俵でした。

ドラム 初土俵だけは、本名の「冨田」で土俵に上がったんですが、この時は前相撲で、全国3位だった同級生の力士を1秒で押し出して勝ちました。それもあって、「全国3位なら、将来は大関くらいの実力かな? それに勝ったなら、1年で十両に上がって、5年で横綱になれないかな?」とか、当時の僕は相撲を軽く考えていて「世間知らずだったな」と思います(苦笑)。

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