箱根駅伝に4回出場して赤﨑暁が手に入れたもの マラソンを走るきっかけとなった監督の言葉 (2ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by アフロスポーツ

【レース後に「お前さえやらかさなければなぁ」と......】

 襷を受けた時は14位で10位の日体大とは7分近い差があり、シード権はほぼ絶望的だった。

「もし区間新で走れたとしてもシード圏内に届かない差だったので、ここまできたら楽しんで走ろうという気持ちでした。でも、そんな思い切ってもラスト3キロでペースが上がらず、10分近くかかってしまった。もうちょっとどうにかできなかったのか、その課題と悔しさが残った箱根でした」

 赤﨑の1年目の箱根挑戦は区間12位、チームは総合14位に終わった。

 2年生になり、赤﨑は箱根での苦い経験を活かして課題と向き合った。

「今でも課題ですが、最後にどれだけきつくても粘るというのは、競技を続けていく上で絶対に必要だと思いました。なのでポイント練習では、ラストの1本を上げるように取り組んでいました」

 2年生ながらチーム内でかなり力をつけ、箱根駅伝は往路での出走がほぼ確定し、最終的に希望だった3区を任された。

2年の3区は一番気持ちよく走れました。海沿いで風や気温の影響を受けやすいところだったんですけど、その影響もなかった。走りの内容としては、箱根を走った4年間で一番よかったですね」

 310位で、チームは総合8位になり、シード権を獲得した。このままの勢いで3年ではさらに飛躍し、箱根でも結果を残したいと思っていた。ところが3年時の箱根駅伝は、まさかの大苦戦に終わった。

1区という大事な区間だったんですけど、かなり苦しかったですね」

 1区、赤﨑は遅れ、1位の東洋大の西山和弥に151秒の差をつけられ、区間18位に終わった。その後チームは往路区間を8位まで盛り返し、総合9位で2年続けてシード権を獲得した。

「この時の箱根は本当に後ろのメンバーと先輩たちに助けられました。チームメイトに会うのは10区終了後の報告会でしたが、ゴールするまでに会った人には、すみませんと頭を下げていました。とにかくレースが終わるまでは、これでシードを取れなかったら自分のせいだって思って苦しかったですね。なんとか総合9位でシードが取れた時はホッとしました」

 チームの結果に安堵した表情を見せた赤﨑だが、先輩たちには「お前さえやらかさなければなぁ」と、イジられた。その声で少し気持ちが楽になったが、このレースのことはいまだに先輩たちに会うと言われるという。

 

 4年生になり、チームの体制が変わった。

 岡田監督が勇退し、山下拓郎監督が就任。練習のメニューも従来の距離を踏みつつ、スピード練習にも力を入れた。その結果、トラックで多くの選手が自己ベストを出し、赤﨑も9月の日本体育大学長距離競技会10000m282790の自己ベストを出した。

「スピードがついたのは、実感しました」

 そして、赤﨑はキャプテンになった。走力だけではなく、チームを牽引するという責任を持って競技に取り組んだ。

「キャプテンについては、みんなからは、『赤﨑、意外としっかりやっていたよ』って言われたのですが、僕自身はみんなのことをまとめることができたのかなって思っていました。ただ、うまくやれたとしたらそれは同期の中井(槙吾)や玉沢(拓海)がサポートしてくれたからだと思います。『赤﨑は、キャプテンであり、エースだから言葉よりも走りで見せて、背中で引っ張っていってくれればいいよ』って言ってくれたので、僕も自分のやれることをやろうと割り切ることができた。それでうまく拓大をまとめることができたのかなと思います」

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