髙久龍が東京マラソンで「絶望」を感じるも、「競技人生の最後」と決めてパリ五輪を目指す理由 (2ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 日刊現代/アフロ

設楽悠太との合宿で「驚いた」

 チームには、マラソンが強い選手がいなかったので、髙久は大学時代の先輩である設楽悠太に「夏合宿を一緒にやらせてください」とお願いをした。

「大学の時から設楽さんにはお世話になりました。僕は細かいことを気にするタイプだったのですが、設楽さんはひとつ芯があって他は深く考えないので、そこに救われたというか、考えすぎはよくないって思うようになりました。設楽さんは、あまり練習しないタイプに見えますけど、見えないところで意外とコツコツやるんです。設楽さんがそこまでやるなら自分はもっとやらないと勝てないと思わせてくれた先輩であり、最高の目標でした」

 夏合宿、距離走は35キロ以上走ることはなかったが、インターバル走の質が非常に高かった。当時、髙久の5000mの自己ベストは13分57秒だったが、5キロのインターバル走3本のラストは13分50秒に上がり、設楽は13分45秒でこなしていた。3キロのインターバル走も8分10秒が設定になっていた。

「こんなに出力を上げるのか。マラソン練習なのに、トラックの練習みたいなことをするのかって驚きました。その時はキロ3分ペースがまだ早い時代でしたが、マラソンはスタミナをつけつつ、スピードもないとダメだなと思い知らされましたね」

 髙久はMGC直前まで設楽と合宿をこなしたが、あまりにも質が高く、毎日、いっぱいいっぱいの状態から故障してしまった。その影響が大きく、その年のMGCは32キロ地点で途中棄権になった。

「設楽さんの飛び出しはすごかったですね。僕は、足が痛くて、スタートラインに立つための練習しかできなくて......。レース後、僕は設楽さんと同じ治療院に通っていましたが、そこの先生が『髙久と一緒にやってケガをさせたことを設楽が悔やんでいた』と教えてくれました。それを聞いて申し訳ないというか、僕は大丈夫ですというのを見せたいと思い、設楽さんとこなした夏合宿のメニューをひとりでやるようにしました。そのメニューを、余裕をもってこなせた翌2020年3月の東京マラソンで2時間6分45秒を出せた。設楽さんには感謝しかないですし、僕自身、これで一皮むけた感じがありました」

 東京マラソンは、2時間7分45秒の設楽に勝ち、当時の歴代4位の記録だった。また、印象的なレースを展開したのは、2021年12月の福岡国際マラソンだった。「優勝したい」と思い、勝つレースを意識して、より実践的な練習で自分を追い込んだ。その成果がレースに表われ、終盤までトップ争いを展開した。

「ペースメーカーが抜けたあとも誰も引っ張らず、日本人はもちろん、外国人選手も勝ちにきているのがヒシヒシと伝わってきました。その時、潰れてもいいやと思って前に出て、いつもの守りのマラソンから初めて攻めのマラソンをしました。その後、抜き返されて自分の弱さが出た悔しさもあったのですが、42キロのなかで自分の成長を感じられたレースでした」

 髙久は、2時間8分38秒で日本人3位、パリ五輪の出場権を賭けて走る2023年のMGCの権利も獲得した。結果以上に収穫が多いレースだったが、一方で走り終わったあと、大きな悔いを残すレースも経験した。2022年3月の東京マラソンだ。

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