【視覚障害者柔道】パラリンピック切符を掴んだ広瀬誠。ライバルとともに歩んだ道

  • 瀬長あすか●文・取材 text by Senaga Asuka
  • 吉村もと●写真 text by Yoshimura Moto

試合後握手を交わす広瀬誠選手(左)と藤本聰選手(右)試合後握手を交わす広瀬誠選手(左)と藤本聰選手(右) 男子66kg級のライバル対決を制した広瀬誠は、笑顔で歩み寄る藤本聰に深々とお辞儀をした。「ありがとうございました」。その光景は、畳を下りてからも何度となく繰り返された。互いを意識し、高め合ってきたふたり。その間には強い結束が生まれていた。

 5月27日、講道館。「ロンドンパラリンピック柔道競技日本代表候補選手選考大会」注目の一戦。男子66kg級は、2008年北京大会の柔道で唯一メダルを獲得した階級である。

 前回大会のパラリンピック日本代表は、現在36歳の藤本聰。アトランタからアテネまで3大会連続金メダルを獲得した絶対王者だ。北京では決勝で延長の末に敗れて4連覇を成し遂げられず、声を上げて泣いていた。帰国後、負担がかかり限界だった両手首を3度手術。思うように回復しないなかで、苦しみながらも、ロンドンで再び金メダルを獲ることを目標に練習を重ねてきた。

 一方の広瀬誠は、アテネパラリンピック60kg級の銀メダリスト。31歳で迎えた北京パラリンピックでは、メダルを期待されながらも7位と惨敗。力の強い外国勢に歯が立たず、絶望感を味わった。「もう辞めよう」。減量の厳しさとスタミナ不足も、そう思った理由のひとつだった。帰国後もしばらく迷っていた。

 だが、広瀬は勝負の世界に戻ることを決める。

 ある気持ちが湧き起こったからだ。

「ひとつ上の階級には、目標とする藤本さんがいる。筋力アップをして挑めば、もしかしたら勝てるのではないだろうか」

 強い選手と対戦すると胸が高鳴るし、勝負に敗れると悔しい。闘う気持ちさえあればまだ続けられると思った。そして、階級を60kgから藤本のいる66kgにひとつ上げてロンドンを目指すことを決意したのだ。

 広瀬が視覚障害者柔道の世界大会に初出場した1998年。当時、すでに藤本はメダリストだった。そんな藤本を、広瀬はお手本にしてきた。柔道に取り組むひたむきな姿勢、打ち込みの練習に誘ってくれる人柄にも触れた。

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