皆川賢太郎「今はただ、単純に五輪という舞台に立ちたい」

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • 山本雷太●写真 photo by Yamamoto Raita(人物) photo by AFLO(競技)

 スキーで雪面を削りブレーキを極力かけずに、直線的な鋭いターンを次々にこなしながら滑り下りていくアルペンスキー・スラローム。その競技性ゆえ、選手にとってケガはつきものと言える。

1998年の長野五輪に初出場し、37歳で迎えた今シーズン、5度目の五輪出場を目指している皆川賢太郎選手1998年の長野五輪に初出場し、37歳で迎えた今シーズン、5度目の五輪出場を目指している皆川賢太郎選手 皆川賢太郎(ドームスキークラブ)もまたけがに悩まされたひとりだった。

 2000年、他の選手に先駆け、それまでの常識とは違う168cmの短いカービングスキーを武器に、皆川はW杯で6位入賞を果たした。この出来事はスラロームの歴史を変えたと同時に、皆川を世界のトップ選手へと押し上げた。

 最初の大ケガはそこから2年後の02年3月。00~01年シーズンのW杯でランキング上位15位以内に入り、翌シーズン(01~02年シーズン)の第1シード入りを果たした。そして、期待されて出場した2002年2月のソルトレークシティ五輪では1本目でコースアウト。その無念さに追い打ちをかけるように、3月の試合中に左膝前十字靱帯を断裂した。

 その後はしばらく低迷したが、05~06年のトリノ五輪シーズンには復活し、1月のW杯第5戦で4位、第7戦も6位に入り、本番のトリノ五輪では1本目を53秒44で3位につけた。2本目は50秒74で滑ったが、総合で3位の選手より0秒03遅く、惜しくも銅メダルを逃した。それでも世界にその存在をアピールするには十分な結果だった。

「トリノは準備もすごく良くできた大会だったけど、その後もすごく良くてタイムレースとか小さな大会では負け知らずだったんです。だから、世界チャンピオンになれるという手応えはすごく感じていましたね。でも調子のいい時ほどケガをしやすい。それでまた離脱ということになったんです」

 五輪の翌シーズン(06~07年シーズン)はW杯開幕戦で13位になり、次の北米カップも優勝と好調だったが、12月にオーストリアで練習中、今度は右膝の前十字靱帯を損傷したのだ。

「やっぱり選手だから無傷でいることは難しいと思うけど、両足をやってしまうと自分の体がどう動くのが正しいか分からなくなって、昔できていた時の状態に戻るのが大変というか......」

 その時29歳。不思議なことに辞めようという気持ちは起きなかったという。

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