「湘南の貴公子」高田保則はワールドユース準Vから25年後、どんなセカンドキャリアを送っているのか

  • 戸塚 啓●取材・文 text by Totsuka Kei

ワールドユース準Vから25年「あの人は今」
高田保則(45歳)インタビュー後編

◆高田保則・前編>>「湘南の貴公子」は周囲の評価のギャップに苦しんでいた

 1999年のワールドユース(現・U-20ワールドカップ)準優勝メンバーのひとりである高田保則は、2005年かぎりで8年を過ごした湘南ベルマーレを離れ、J2のザスパ草津(現・ザスパ群馬)へと移籍した。

 新天地では1年目にチーム最多の12ゴール、翌2007年もチームトップの9ゴールを記録する。2008年もチーム2位の8得点をあげるが、2009年は2ゴール、2010年は4ゴールにとどまった。中位が定位置となっているチームから、高田は契約満了を告げられる。

ワールドユース後のサッカー人生は順風満帆ではなかった photo by Getty Imagesワールドユース後のサッカー人生は順風満帆ではなかった photo by Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る「2010年は出場試合数がチーム2番目で、ラスト5試合で3点、取ったんです。勘違いかもしれないけれど、自分では『まだまだいける』と思っていたところで、非更新と言われまして」

 高田は当時31歳だった。「まだいける」との思いをトライアウトにぶつけるつもりだったが、アピールの機会を逃してしまう。

「2010年シーズンの最終節前日の練習の最後に、ひざをケガしてしまって。セットプレーの練習で、監督ってうまくいかないと『あと1本』と言うんですけど、そのあと1本でケガをしたんです。

 翌日の試合は痛み止めを打ってフル出場しましたが、それもあってトライアウトに行けなかった。契約してくれるチームがひとつもないとわかったうえで現役を終えたかったのに、チャレンジできていない。なので、リハビリをしながらチャンスを待つことにしました。

 川沿いでひとりで練習をしていると、ザスパのGMになっていた植木(繁晴)さんがたまたま通りかかって、練習先として上武大学を紹介してくれたんです」

 自分なりの区切りをつけるために、現役にこだわった。それなのに、気持ちは奮い立たない。時間を持て余して、パチンコ屋へ行ったりもした。

「Jクラブからいくつか声をかけてもらって、J1のクラブもあったんですけど、大学生相手の練習で納得できるプレーができていない状況でした。ケガをしたひざの影響ではなく、気持ちが切れていたんです。Jリーグを見ていても、あそこへ戻れると本気で思えなかったですね......」

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