「湘南の貴公子」高田保則はワールドユース準Vから25年後、どんなセカンドキャリアを送っているのか (2ページ目)

  • 戸塚 啓●取材・文 text by Totsuka Kei

【パソコンで『つづき』の『づ』が打てなかった】

 J2で歴代9位となる407試合に出場したキャリアが、再び動くことはなかった。高田は2011年11月に現役引退を発表する。

「貯金を切り崩して生活するような1年でしたけど、自分を見つめ直すことができました。大学で練習をさせてもらったことも、セカンドキャリアを考えるきっかけのひとつになりました」

高田保則が引退後の苦労と喜びを語ってくれた photo by Sano Miki高田保則が引退後の苦労と喜びを語ってくれた photo by Sano Mikiこの記事に関連する写真を見る 指導者ライセンスはB級まで取得していた。選手としての経験を最大限に生かすことができ、セカンドキャリアをスムーズに踏み出せる意味で、指導者は現実的な選択肢だっただろう。

「でも僕は、まったく知らない世界へ踏み入れたいと思ったんです。パソコンを使って定時で働いている人はかっこいいな、と思ったところもありまして。いろいろな仕事の人たちに会わせてもらっていくなかで、『スポーツこころのプロジェクト』がスタッフを探しているという話を聞いたんです」

『スポーツこころのプロジェクト』は、2011年の東日本大震災をきっかけに動き出していた。日本サッカー協会が2007年にスタートさせた『夢の教室』というカリキュラムを使い、スポーツ界のさまざまな人たちの力を集めて、2012年からのスタートが決まっていた。

「被災した子どもたちのために──というプロジェクトの趣旨はもちろんですが、そこで働く人たちが作り出す雰囲気がすごくよくて、『自分も働いてみたいな』と思ったのがきっかけでした」

 仕事を始めてみると、悪戦苦闘の連続だった。

「パソコンで文字を打つのも、ひと苦労でした。僕と同期で元浦和レッズの都築龍太の名前を打ち込むときに、『つづき』の『づ』が打てなかったんです。周りの人に聞くと『えっ、そんなのも知らないの?』と苦笑いされましたが、『すみません、ヘディングしすぎちゃって』なんて言って教えてもらいました。

 そういうコミュニケーションができるのは、サッカーをやっていたからです。知らないこと、できないことをそのままにしていたら、試合に出られませんからね」

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