ロッシの後輩、シモンチェリの短過ぎた生涯。遺志を継ぐ日本人がいる (5ページ目)

  • 西村章●取材・文 text by Nishimura Akira
  • 竹内秀信●撮影 photo by Takeuchi Hidenobu

 一部の心ないファンからの脅迫行為には、シモンチェリ自身も臨時警護を雇うほどの危機感を抱いていたということだ。レースウィークを通じて、ロッシらさまざまな選手やレース関係者が、ファンに対して冷静な行動を広く呼びかけたことも奏効したのか、実際には大事に至るようなことはなかった。

 とはいえ、サーキットでのシモンチェリに対する観客のブーイングはすさまじかった。走行でピットアウトするたびにグランドスタンドから一斉に大きなブーイングが沸き起こり、コースから戻ってきてピットインすると、またもやブーイングの大合唱になる。観客たちのそんな反応が返ってシモンチェリの闘志に火をつけたのか、土曜の予選ではMotoGP初のポールポジションを獲得。一部のアンチファンにとっては、むしろ逆効果になってしまった。

 その後、第7戦オランダGPでもポールポジションを獲得。初表彰台は、夏休みが明けた8月の第11戦チェコGPの3位だった。その後のレースでは4位フィニッシュが続き、シーズン終盤の第16戦オーストラリアGPでは2位に入った。レースごとにどんどん調子を上げてくる彼は、遠からず優勝争いにも食い込んでくるだろうーー。そんな期待が高まりつつあるさなか、第17戦マレーシアGPの決勝レースで、シモンチェリはアクシデントにより逝去した。赤旗中断の後、レースは再開せず、キャンセルになった。

 享年24。あまりに早逝が過ぎる。

 2週間後の最終戦バレンシアGPは、シモンチェリを追悼する大会になった。決勝レースの日曜朝には、1993年の世界王者ケビン・シュワンツがシモンチェリのバイクに乗って先導し、全クラス全選手がコース上をパレードする追悼ラップが行なわれた。コース周回を終えてストレートへ戻ってきた選手たちは、1分間にわたりスロットルを全開にしてエンジン音をとどろかせる「黙祷」をした。

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