「日本代表への招集を辞退」はあり? 欧州では珍しくない大物選手「招集辞退」の数々 (2ページ目)

  • 中山淳●文 text by Nakayama Atsushi

【W杯出場を拒否した大物選手たち】

 過去を振り返っても、実はこのように選手が何らかの理由で代表チームでのプレーを拒否する例は少なくない。

 大物選手の例としては、オランダ代表のレジェンドでもある故ヨハン・クライフが1978年W杯アルゼンチン大会を前に代表参加を拒否。表向きには家族との時間を大切にしたいというのがその理由で、王室からの出場要請にも翻意しなかった。結局、エース抜きで本番に臨んだオランダ代表は、2大会連続の準優勝で大会を終えることとなった。

 同じくオランダでは、1994年アメリカW杯で英雄ルート・フリットが大会を前に代表チームを離脱したことがあった。

 当時のフリットは、マルコ・ファンバステン、フランク・ライカールトとともにトリオを形成し、1988年ヨーロッパ選手権(ユーロ)の初優勝の立役者となるなど、当時のオランダを代表する世界的ビッグネームだった。

 94年W杯はフリットにとっても最後のW杯とも言われて注目を浴びていたのだが、当時のディック・アドフォカート監督の戦術を受け入れられないとして、自身の考え方を貫いて代表を離れる決断を下している。

 他にも、日本でもプレーした点取り屋ラモン・ディアスが1990年イタリアW杯のアルゼンチン代表メンバー入りを拒絶。当時はモナコでプレーしていたディアスだったが、それ以前には長くイタリアで活躍していただけに、チームにとっては大打撃とされた。故ディエゴ・マラドーナとの不仲がその理由だったことは有名な話だ。

 直近のカタールW杯前には、モロッコ代表で騒動があった。日本代表監督の経験もあるヴァイッド・ハリルホジッチ監督と主力選手数名の間に生まれた軋轢が、その原因だ。

 規律を重んじるハリルホジッチ監督は、ハキム・ツィエク、ヌサイル・マズラウィ、アミーヌ・アリ、ユネス・ベランダといった主力選手が、合流に遅れるなどしてチームの規律を乱したとして代表チームから追放。2022年1月のアフリカ選手権やW杯アフリカ予選の代表から外す決断を下した。

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