各国でサッカーから優れた文学が生まれている (2ページ目)

  • サイモン・クーパー●文 text by Simon Kuper
  • 森田浩之●訳 translation by Morita Hiroyuki

 もうひとつの大事な要因だが、ホーンビィはアメリカ文学が好きだった。彼が『フィーバー・ピッチ』の直前に出版した最初の本は『コンテンポラリー・アメリカン・フィクション』というエッセイ集だった。ホーンビィは優れた書き手がスポーツをどれだけうまく描けるかを知っていた。たとえばホーンビィは、アメリカの作家フレデリック・エクスリーの『あるファンの遺書』を読んでいた。主人公はアメリカンフットボールのニューヨーク・ジャイアンツの架空のファンで、酒におぼれて精神科を出たり入ったりしているのだが、生きつづける理由をジャイアンツからもらっているという設定だ。スポーツ・ライティングの世界に限れば、僕たちはアメリカの文化帝国主義に負うところが大きい。

『フィーバー・ピッチ』がヒットした後、イギリスにはフットボールの本があふれ返った。ある推定によれば、イギリスで出版されたフットボール本は、その他の国すべての合計よりも多い。

 作家のなかにはホーンビィにならい、自分たちの暮らしを見つめ直すための題材としてフットボールを使った人たちもいた。あるいは自分たちの国を理解するためにフットボールを使った書き手もいた。アレックス・ベロスは『フチボウ』(邦訳・ソニーマガジンズ)でブラジルを書き、デイビッド・ウィナーは『オレンジの呪縛』(邦訳・講談社)でオランダを描いた。

 過ぎ去った時代を描くためにフットボールをテーマにした作家たちもいた。よく取り上げられたのは70年代のイギリスだ。ノッティンガム・フォレストの偉大な監督だったブライアン・クラフについて書かれた本だけでも大変な数にのぼる。

 新たに生まれたフットボール本というジャンルを、うさん臭いと感じる人もたくさんいた。高尚な作家は労働者階級のスポーツなどにかかわるべきではないともいわれた。批判派はこんなことを言っていた。「フットボールは短パンをはいた22人の男が、プラスチックのかけらを蹴って走り回るだけのものだ。文学のテーマにはふさわしくない」

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