野球少年がサッカーに転向し恩師との出会いでフットサル日本代表に 45歳で引退の金山友紀が築いてきた稀有な選手キャリア (3ページ目)

  • 河合 拓●取材・文 text by Kawai Taku
  • 高橋 学●撮影 photo by Takahashi Manabu

【現在もサッカースクールで働く】

 この時、金山は働いていた時の貯金を切り崩して生活をしていた。そこでイラン遠征の際に、木村監督に将来の相談をした。すると木村監督は、自身が代表を務める有限会社シュートで金山をアルバイトで採用し、サッカースクールのコーチを任せることにした。この時から現在も、金山はこの会社に籍を置いている。もちろん、今はバイトではなく、社員としてだ。

「当時は本当にお金がなかったから、しょっちゅう和司さんの家に行って、ご飯も食べさせてもらっていました。『五合も炊いているのに、ほぼなくなる』ってビックリされていましたね。誰かと行っていた? いや、僕一人です」

 この時、金山は食事をさせてもらうだけでなく、木村氏から日本リーグがJリーグになる過程の貴重な話も聞かせてもらっていたという。

「アマチュア選手がプロになっていく過程とか、プロとは何かとか、そういう話をしょっちゅう聞かせてもらっていました。よく『プレーでどれだけ楽しませられるのか』『どれだけお客を呼べるのか』みたいな話をしてもらっていました」

 Jリーグブームで野球からサッカーに転向した金山だったが、この当時はまさにフットサルブーム。2002年の日韓W杯の影響もあり、日本中にフットサルコートができていった時期だった。また、当時はスーパーリーグという民間リーグがテレビ中継されるなど、屋内スポーツとしても注目されていた。

「フットサルのプロリーグを作りたい、見てもらいたい、もっと知ってもらいたいという一心でしたね。だから、見に来てくれる人たちに面白い試合を見せること、どういう振る舞いをするべきかとか、そういうことも意識していました。あとはプロリーグや全国リーグを作る過程を経験できるのは、その時の一部の人だけ。この時間を過ごした人は、貴重な人だって言われましたね」

 カスカヴェウの練習を、後に川崎フロンターレで監督を務めることになる高畠勉氏が見学に来たことがあった。この時に「プロサッカーチームより追求して練習してて、よりプロフェッショナルだ」と言われたのが、強く印象に残っているという。それくらいプロ意識の高いチームだった。

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