野球少年がサッカーに転向し恩師との出会いでフットサル日本代表に 45歳で引退の金山友紀が築いてきた稀有な選手キャリア (2ページ目)

  • 河合 拓●取材・文 text by Kawai Taku
  • 高橋 学●撮影 photo by Takahashi Manabu

【突然フットサル日本代表に】

 野球部であれば、1年時からレギュラーを狙えた金山だが、サッカー部に入部したことでボール拾いからスタートすることとなった。

「右利きの選手には、パスを右足に出すとか。左利きの選手には左足に出すとか、そういうのを学んだのは高校の時です。中学校で3年間サッカーをしてきた生徒たちとは、当然、差がありました」

 3年生が引退して、新人戦からレギュラーになった金山は、高校3年時には島根県の国体選抜にも選ばれる。この実績を生かして2つの大学の推薦テストを受けたが合格せず。受験もうまくいかなかった金山は、浪人するか、ブラジルにサッカー留学に行くかという二択で悩んでいた。両親と相談するなかで、元鹿島アントラーズのジーコ氏もかかわっていたサッカーの専門学校であるルネス学園金沢に進学することを決めた。

 1学年100人の大所帯だったが、金山は最初のセレクションからトップチームに抜擢される。推薦入学以外でトップチームに入ったのは、この学年で金山だけだったという。

 ジーコ氏は、サッカー選手の育成にフットサルが効果的であると語っているが、ルネス学園もサッカーだけでなく、フットサルの大会にも出場していた。

 金山はルネス学園を2年で卒業すると、愛知県で社会人として働きながら社会人チームに加入して2度、国体にも出場した。この時に並行して、同級生を中心にBorn77というフットサルチームを立ち上げて、フットサルもプレーしていた。

 このBorn77で全日本フットサル選手権を含む3度の全国大会に出場して、カスカヴェウ(現ペスカドーラ町田)と対戦したことで金山はフットサルにのめりこんでいく。

 全日本選手権終了後には、カスカヴェウへ移籍。全日本選手権での活躍が話題になっていたこともあり、加入直後には東京都選抜にも選ばれる。東京都選抜は、当時、横浜マリノスでも活躍した元サッカー日本代表MF木村和司氏が監督を務めていたフットサル日本代表と練習試合を行った。

 この試合で木村監督の目に留まった金山は、そのままフットサル日本代表にも選ばれて、イランで開催された2001年のAFCフットサル選手権(現フットサルアジアカップ)にも出場することとなる。当時もわずかながら日当があったが、フットサル選手からすれば、「フットサルをしてお金がもらえる」というありがたい状況だった。

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