鉄平「オリックスでは行方不明状態でした」2度のトレードで味わった悔しさと寂しさを明かす (2ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi
  • photo by Sankei Visual

── 2003年オフに外野にコンバート。そして4年目の2004年6月1日の試合で「6番・レフト」で初スタメン。この年は50試合に起用され、日本シリーズにも出場しました。プロでやっていく自信みたいなものが生まれたのではないですか。

鉄平 いえ、僕の性格かもしれないですが、そのような自信はまったくなかったです。逆に「野球ってこれほど冷や汗をかきながらプレーするものなのか」と感じていました。本当に毎日が緊張の連続でした。

── 2004年は落合博満監督が就任して1年目で優勝。二遊間を守る荒木雅博選手、井端弘和選手の「アライバ」コンビを筆頭に、捕手には谷繁元信選手、外野手には福留孝介選手、アレックス・オチョア選手などタレント揃いで、中日黄金時代の幕開けとなりました。

鉄平 若手は、とくに打撃で割り込んでいくのは難しかったですね。守備や走塁からチャンスをつかんでいくしかないのですが、どの先輩も意識が高かった。正直、先輩たちを脅かせるのは"若さ"しかありませんでした。だから、守備固めや代走で出場機会をいただいた時は、なおさら「しっかりやらなきゃ。ミスは絶対にできない」という思いが強かったですね。

【首位打者でも自信を持てなかった】

── 2005年オフにトレード通告があった時の心境は、安堵感、心機一転、どちらの気持ちが大きかったですか。

鉄平 トレードの話を聞いた時は、驚きと中日の生え抜き選手としてやり遂げることができなくなってしまった寂しさや悔しさがありました。でも、気持ちをすぐに切り替えて「このチャンスを生かせなかったら、自分には力がなかったと割りきろう」と。

── 移籍1年目に開幕スタメンを果たし、その年、打率.303の好成績を挙げられました。

鉄平 シーズン120安打を放ち、打率も3割をマークしましたが、それでも「プロでやっていける」と確信めいたものはなかったです。それまでやってきた自分なりの財産、がむしゃらな気持ちでプレーを続けたのが3割超えにつながったと思います。

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