箱根駅伝をエースとして走る苦悩を元青学大・近藤幸太郎が振り返る「全然楽しくなかった」 (2ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun

 エースとして田澤と熱い戦いを演じた近藤だが、青学大のエースへの階段を上り始めたのは、大学2年の時だった。

 全日本大学駅伝の2区で駅伝デビューを果たしたが、13位に終わり、チームは4位に終わった。その時の先輩の振る舞いが、のちにエースになる際の鑑になった。

「全然ダメで、落ち込んでいました。その時、4年の神林(勇太)さんが、『全然、問題ないよ。俺も失敗したことがあったし、頑張ってやっていこう』と声をかけてくれたんです。前にそういう経験をされていたようでしたので、説得力がありましたし、走りでも神林さんは区間賞を獲って僕のミスをカバーしてくれました。そういう人間性をともなったエースになりたいと、その時思ったんです」

 全日本の後、近藤は箱根駅伝7区を走り、区間3位と好走し、順位を10位から7位に押
し上げた。3年になり、春のトラックシーズンでは10000mで28分10秒の青学大記録をマークし、原晋監督からもエースとして認められるようになり、その自覚が生まれた。

「エースは、競技面で言えば、レースの流れを変える、後輩がミスしたら何とかしてくれるという存在。人間性では、エースだからって偉そうに上から目線で話をするのではなく、同じ目線で対応する。そういうのは神林さんを始め、(吉田)圭太(住友電工)さんから学ぶことが多かったです。本当に優しくて、後輩への接し方を含め、色んな事を教えてくれました。それを継承して、後輩たちに伝え、走りでチームを引っ張っていく。それが僕の考えるエースです」

 近藤がエースとして認められ、後輩からも慕われていたのは、壁を作らず、コミュニケーション能力が高かったのが大きい。同部屋だった黒田朝日も「近藤さんには優しくしてもらいました。おかげでストレスなく生活できました」と笑顔で語っていた。

「後輩から先輩に話しかけるのってなかなか難しいところがありますが、先輩からいくと後輩も話しやすいと思うんです。僕は圭太さんから話しかけてもらってすごくうれしかったですし、競技へのモチベーションになりました。話をすることで距離が縮まりますし、そうなるとチームも明るい雰囲気になる。僕がエースになってからは、かなり意識的に後輩に話しかけていました。シンプルに人と話すのが好きというのもあったんですけどね(笑)」

 人間力が増した近藤がエースとして会心の走りを見せることができたのは、どのレースだったのだろうか。

「4年の時の全日本(7区)です。前を行く田澤を追って、突っ込んで入り、粘って最後までいけた。自分の走りにすごく手応えを感じましたし、一番の自信になりました。箱根の2区は、きつすぎてよく覚えていないんです。あとで映像を見て、こんなんだったんだという感じだったので、手応えとか以前にしんどいだけだったんで(苦笑)」

 全日本の7区は、田澤を追い掛け、ライバルと走る際に課していた30秒以内で襷をつなぐという目標を14秒差にとどめることができた。3大駅伝で自分らしい走りと確かな手応えを得て、卒業できるのは、ごく一握りの選手だけだろう。

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