「どんな状況でも使う」と言われ続けてオリンピック本番では走れず 髙橋萌木子が明かすロンドン五輪女子4×100mリレーまでの道のりと苦悩 (3ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

 練習ではバトン区間のタイム計測のデータをとっていたが、選手たちはその活用の仕方がよくわからず、逆にストレスになった。また選手たちの意識にも差があった。

「みんな世界で戦いたいと口では言うけれど、『どのように戦いたいのか』というのを言えたのはチーくらいで、具体的なことは言えてなかったです」

 世界選手権後は11月のアジア選手権の200mで優勝し、4継でも世界選手権と同じメンバーで優勝。翌2010年の日本選手権でも100mは2位だったものの200mは福島に0秒01競り勝って優勝した。大陸別対抗のコンチネンタルカップでは200mと4継の代表になり、アジア大会では100m4位、200m6位で4継は3位と結果を出した。だがこの頃から少しずつ髙橋の心は乱れ始め、記録の低迷も始まっていた。

「まずは自分を見なければいけないのに、自分の心を置いてけぼりにして(走りを)作り上げようとしていたんですよね。疲れているので心では『休みたい』と思っているのに、体は動けるので『頑張れ!』と言って。心と体のギャップが生まれて、練習はしているのにタイムは伸びないというような状況でした。

 私は昔から悔しい時はその感情をすごく表現するタイプだったんです。でもある時にコーチから『泣くな、みっともない』と怒られたことがあって。『大人の世界に入ったら泣くことはいけないんだ』と思って自分の感情に蓋をしました。『泣いちゃいけない、泣いちゃいけない』と思ってやっていたら悔しさが麻痺し始め、負けても『あ、また負けたか』くらいになっていきました。

 特に2010年の静岡国際でチーが22秒89で勝って私が23秒17だった時はコーチにすごく怒られたし、タイムは評価されず予選落ちと同等のような扱いだったので、私が走っている意味はなんだろうと思い始めて、でも走らないと怒られるから、すり減った心は置いておいて、神経と筋肉を何とか使って走っている感じでした」

中編「ロンドン五輪直前に感じていた練習内容への不安と疑問」へ続く>>

プロフィール
髙橋萌木子(たかはし ももこ)
1988年11月16日生まれ、埼玉県出身。
中学時代はソフトボール部に所属しながら陸上に取り組んでいたが、埼玉栄高等学校入学後、本格的に陸上を始める。100mではインターハイで高校3連覇を果たし、3年時の南部記念では11秒54の高校記録も更新。平成国際大学進学後も日本選手権の100mで初優勝するなど、この頃からリレーの日本代表としても活躍し始めた。2009年には福島千里と共に200mで日本記録を出したが、2011年ごろからは不調に苦しんだ。2015年に所属先を富士通からワールドウイングに変えて練習を続けていたが、2020年9月に引退。現在はスポーツメンタルトレーナーとして選手たちを支えている。

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