箱根駅伝で「2区でいくと言われてもうれしくなかった」。東海大初優勝時のメンバー湯澤舜がそう語ったわけ (3ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 産経新聞社

 第95回箱根駅伝は、青学大、東洋大、東海大の3強と言われていた。東海大は1区、鬼塚が区間6位で駆け、トップの東洋大と8秒差、3位の青学大と2秒差で襷をつないだ。

「2区は、自分よりも力がある選手が多いんですが、逆に自分がここで耐えればそのあとのメンバーを考えると十分に戦えるし、チャンスになるのかなと思いました。耐える2区みたいに言われましたけど、実際のレースはそこまで耐える感じではなかったです。自分は青学大と東洋大を目安にして走ればよかったので、自分から攻める必要性がなかったんです。1区の鬼塚がいい位置でくれたことで青学大と一緒に走れましたし、東洋大も前に見えていたので、気持ちの余裕はありましたね」

 襷をもらって走り出すと沿道からの声援が大きな塊となって耳に届き、「このままじゃ集中できない」と思った。自分の走りに集中するために湯澤は、外の声をシャットアウトした。途中、給水を2回取るタイミングがあるが、最初の1回目はあまりにも集中しすぎて忘れそうになった。みんなが沿道寄りにコースを取るのを見て、どうしたのかと思ったらそのタイミングで給水だった。そこで一度、意識が戻ってきたが、給水してまた集中して走った。

「ここまで意識を集中できたのは、レースで初めてでした。13キロの権太坂でみんな一度苦しむけど、自分は余裕を持って上れたし、今回は(身体が)動いているなって感覚があって、これならこの先も失速せずにいけるというイメージでした。後半、疲れてくると集中が続かなくなるけど、この時はラストの坂も集中してきついなかでも粘れたので、今までやってきた練習の成果が出たなと思いましたね」

 湯澤は区間8位だったが、東洋大に36秒差と視界にとらえつつ、逆に青学大には23秒差をつけ、区間順位以上に価値のある走りを見せた。この走りに刺激を受けた5区の西田は、「湯澤さんの走りを聞いて、次は自分だと気持ちが高まりました」と語り、区間新の走りで往路を2位でフィニッシュ。翌日、復路での大逆転劇につながる走りを見せたのである。

優勝翌日から気持ちがなえてしまった

 湯澤にとって、一度きりの箱根駅伝になったが、それは今も続く陸上人生にどういう影響を与えたのだろうか。

「箱根は、今のマラソンという競技に大きくつながっています。箱根を目指していくなかで距離を踏むんですが、実業団ではさらにもう一段階上げる感じなんですよ。それは大学時代に箱根に向けて積み重ねてきたものに上乗せするイメージです。意識という面でも箱根を目指すうえで自分が変わらないと、と思わせてくれた。自分にあった練習方法とか、改めて陸上を考えるきっかけにもなりました」

 箱根駅伝初優勝のインパクトは非常に大きく、優勝した翌日は朝からテレビに出演し、違う世界を感じた。そうしてチーム内に張り詰めていたものがしぼんでいくのを感じた。

「達成感がすごく大きかったんだと思いますが、優勝したことで自分を含めて、みんな満足してしまった感があったと思います。自分は箱根のあと、熊日30キロロードレース、東京マラソンとレースを入れていたんですが、箱根の時と比べると練習に身が入らない感じがありました。そこは、実業団で競技を続けていくうえで反省すべき点でしたが、歴史に名前を刻めたことは本当にうれしかったですね」

 箱根で有終の美を飾った湯澤だが、目指すべき道であるマラソンに向けては卒業前から動き出していた。箱根を終え、五輪へと目標が変わるのは、これから3年後、東京五輪のマラソンを見てからになる。

後編に続く>>初マラソン時に痛感。「大学でやってきたことだけじゃ無理だな」

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