箱根駅伝で「2区でいくと言われてもうれしくなかった」。東海大初優勝時のメンバー湯澤舜がそう語ったわけ (2ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 産経新聞社

 湯澤は、自らの課題を4年生の5月にクリアすることになる。関東インカレのハーフで日本人トップという結果を出した。

「関東インカレは、自分のなかで大きなターニングポイントになりました。今まで勝負レースで勝ちきることができなかったんです。それが関東インカレという大きな大会のハーフマラソンで日本人トップを獲れたのは、大きな自信になりました。箱根を意識することにおいても大きかったですね。箱根はハーフの距離なので、そこを走れるんだというアピールにもつながったかなと思います」

 3年間、走れなかった箱根がその時、ようやく見えてきた。湯澤は長い距離を淡々と走れるのが自分の特徴ととらえていたので、10区が希望だった。アンカーとして走り、区間賞を獲って卒業するのが湯澤自身の大きな目標だった。そこに照準を合わせて努力をしていたが、夏合宿が始まるとチームに暗雲が漂い始めた。

「夏前までは、自分が往路という意識はなかったんですが、夏合宿で黄金世代に故障者が出て、数名がちょっと難しい感じになってきたんです。その時、往路の主要区間を走れるのは自分か湊谷(春紀・現NTT西日本)しかいなかったので、もしかしたら走れるかもって思いましたけど......さすがに2区は考えていなかったですね」

「2区でいく」と言われてもうれしくなかった

 夏合宿を順調に終え、湯澤は出雲駅伝で駅伝デビューを果たし、アンカーで区間4位、全日本大学駅伝でもアンカーで区間4位の結果を出し、チームの準優勝に貢献した。両駅伝でアンカーを務め、安定した力を発揮する湯澤に、両角監督から箱根駅伝の予定区間を言い渡された。

「全日本が終わってから2区でいくと言われました。正直、そんなにうれしくなかったですね。2区はエース区間で力がある選手が多いですし、東海は2区と5区が鬼門みたいに言われていたので荷が重いというのもありました。それに(10区で区間賞を獲るという)自分の目標もあったので。でも、言われてからは腹がすわりました。2区の準備をしていけば、山以外はどこでも走れると思ったので、2区を意識して取り組むようにしていました」

 東海大の鬼門といわれていた2区は湯澤、5区には2年生の西田壮志(現トヨタ自動車)の名前が区間エントリ―の名簿にあった。ふたりともに初の箱根である。しかもチームの浮沈にかかわる大事な区間だ。レース前、湯澤が西田に「自分たちがしっかり走れば(優勝も)いけるな」と話をした。

「チームのなかで、2区と5区が不安要素みたいな感じで思われていたんで。でも、自分らがハマればいけるというイメージがあったので、西田とそういう話をしました」

 結果的に、湯澤と西田の2区間の快走が大きな結果につながることになる。

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