女子バレー全日本の徹底したソウル五輪対策。「仮想・ソ連」戦に負けたあと、ハサミとキリを持った指揮官の行動に大林素子は絶句した (3ページ目)

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari

ソ連戦で膝が震えた瞬間

――そういったことを乗り越えて迎えたソウル五輪はいかがでしたか?

「初戦で、最も対策してきたソ連と当たりました。私はあまり緊張しないタイプなんですが、その試合前はすごく緊張して、更衣室で靴ヒモを結ぶ手が震えていました。隣にいた久美さんも、『私も緊張してる』と言って、やはり手を震わせながらテーピング巻いていました」

――試合にも影響したのでは?

「いえ、コートに出てボールに触れた瞬間に、その緊張はサーッとなくなっていきました。その感覚は今でも覚えています。

 ソ連はダントツで優勝候補でしたから、私たちは挑むだけでした。試合はフルセットまでもつれて、最終セットもデュースという壮絶な展開。試合終盤のタイムアウトの時に、山田先生が『苦しいのは、みんな一緒だ』という話をしたんですが......先生がそこで、夏の合宿でランニングした河原の小石をポケットから取り出したんです。練習時に拾っておいて、それを『ここぞ』という時に見せてくれた。

 その瞬間に私たちは『あんな壮絶な練習を乗り越えてきたじゃないか。私たちは絶対にソ連より苦しんできた』となって、疲労や苦しさなどが一気に吹き飛びました。それも先生の采配の妙ですが、『絶対いける』とスイッチが切り替わり、試合に勝つことができました」

――勝利の裏でそんなことがあったんですね。

「私が『現役生活でもっとも記憶に残っている試合』もこのソ連戦です。最終セットのデュースで『怖い』と思ったこともよく覚えています。ソ連はサーブがよく走っていました。ある選手が打つ瞬間に、初めて『怖っ』と膝が震えた記憶があります。でも、同時に一番好きで得意なサーブレシーブなので、『絶対私は大丈夫』と思い直した瞬間でもありました。

 それ以降、『サーブレシーブが一番得意』という絶対的な自信がつきました。引退するまで、どんなシーンでサーブを受ける時も『あの場面でもサーブレシーブをちゃんと返せた』という思いが私を支えてくれた。私は過去のさまざまな"しんどかった"出来事を糧にして困難を乗り越えてきましたが、ソ連戦のサーブレシーブもそのひとつです。そのくらい、その当時はいろんなものを背負って戦っていた。『そういう時代だったんだなあ』としみじみ思います」

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