「受験番号22174をマークせよ」 江川卓の慶應大受験は前代未聞の報道合戦の末、まさかの結末を迎えた (2ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

 その後、萩原はトレーナー業に転じ、近鉄を経て巨人のトレーナーとなり、1979年に入団した江川と再会を果たしている。

 前橋工業の監督である羽鳥眞之も獲得に乗り出していた。

「僕自身が小山中の江川を見に行き、『こんなピッチャーがいればいいな』と本気で思いましたね。結局、作新に進むのですが、入学したての6月に練習試合で対戦して、0対2で完封負けを食らった時、格段に成長していることに驚きました。小山中時代に見て惚れ込んだすばらしいボールが、短期間で脅威に感じさせるまでに成長し、敵なんですがどこか感心していました」

 江川は高校進学時について、こう振り返る。

「小山に住んでいたので、みなさん小山高に進むものだと思っていたらしいのですが、最初は埼玉の高校を受験する予定だったんです。浦和高か大宮高に行こうと思っていました」

 江川の進学の噂を聞きつけ、県内の有力中学生たちがこぞって小山高に進学したのは有名な話だ。のちに作新で江川の控えピッチャーとなる大橋康延でさえも、「江川が小山高に行くと聞いていたので作新に来たら、入学式にいたのでこっちは目が点になりました」と語るほど、知らず知らずのうちに多くの選手を巻き込んだ。

【慶應大受験にマスコミも大騒ぎ】

 そしてフィーバーを巻き起こした1973年夏の甲子園が終わってからも、江川の動向は俄然注目を集めた。「即プロでも20勝できる」と言われていた江川だったが、早くから大学進学を打ち出し、慶應大へ照準を絞った。

 作新には1949年に荒井敏、62年に春夏連覇のエース・八木沢荘六が早稲田へ進学したこともあり、ルートはあった。江川も早稲田なら推薦で入学できただろう。実際、江川の女房役だった亀岡偉民は早稲田に進学した。

 だが江川は慶應にこだわった。中学生の頃から早慶への憧れが強かったのもあったが、父・二美夫の意向で、推薦で行くよりも一般の学生と同じように受験を経験して大学に入ったほうが長い人生においてプラスになるということで、慶應を志望したとも言われている。

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