清原和博はデストラーデにヤキモチ 石毛宏典が明かす西武「AKD砲」のライバル関係 (3ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

【デストラーデ加入による秋山、清原への影響】

――デストラーデさんの活躍ぶりは、「助っ人の中の助っ人」という感じでした。

石毛 1989年のシーズン途中に西武に来て、一軍のデビュー戦でいきなりホームラン。それから80試合ぐらいで30本ぐらいのホームランを打つなど(83試合で32本)、日本の野球に順応するのが早かったです。打率は毎年.260ぐらいなのですが、毎年ホームランが40本前後で打点も100前後。昔と今では日本のピッチャーのレベルも違うので一概には言えませんが、それでもすごい数字ですよね。

――ちなみに、近年で活躍が目に留まった外国人助っ人はいますか?

石毛 質的にはDeNAの(タイラー・)オースティンと(ネフタリ・)ソト。特によく打っていた頃のオースティンは強烈でした。タイミングを取る時に体の動きが少なく、足も高く上げるわけではない。頭の位置もほとんど動かないので体がブレず、ボールをとらえる確率が上がります。パワーもありますし、体の軸がしっかりしたバッティングだなと。

――デストラーデさんの話に戻ります。デストラーデさんの加入は、秋山さんや清原さんにも、いい効果をもたらしたと思いますか?

石毛 秋山がデストラーデのことをどう思っていたかはわかりませんが、清原に対してはライバル心を持っていたのを感じました。逆にキヨは、デストラーデに対してライバル心があったと思います。先ほども話しましたが、デストラーデがおいしいところを持っていくので、ヤキモチを妬いていた感じがしましたね。

 それと、キヨは本塁打王のタイトルを切望していたと思うのですが、デストラーデが西武に来て3年連続で(計5年在籍)本塁打王のタイトルを獲りましたよね。左右でホームランが打てる力を認めていた一方で、相当悔しかったんじゃないかな。いずれにせよ、3人はお互いに実力を認め合っていましたし、切磋琢磨できるいい関係だったと思いますよ。

――近年、デストラーデさんとお会いする機会はありましたか?

石毛 全然会えていないんです。テリー(・ウィットフィールド/1981~83年に西武に在籍)とはロサンゼルスで会えたんですが、オーレとは会えていないので久しぶりに会いたいです。MLBのアカデミー事情とかも聞いてみたいですし、いろいろな話がしたいですね。

(前編:PL学園時代の清原和博から3奪三振 西武・渡辺智男の「真っすぐ」のすごさ>>)

【プロフィール】

石毛宏典(いしげ・ひろみち)

1956年 9月22日生まれ、千葉県出身。駒澤大学、プリンスホテルを経て1980年ドラフト1位で西武に入団。黄金時代のチームリーダーとして活躍する。1994年にFA権を行使してダイエーに移籍。1996年限りで引退し、ダイエーの2軍監督、オリックスの監督を歴任する。2004年には独立リーグの四国アイランドリーグを創設。同リーグコミッショナーを経て、2008年より四国・九州アイランド リーグの「愛媛マンダリンパイレーツ」のシニア・チームアドバイザーを務めた。そのほか、指導者やプロ野球解説者など幅広く活躍している。

◆石毛宏典さん公式YouTubeチャンネル
「石毛宏典TV」はこちら>>

プロフィール

  • 浜田哲男

    浜田哲男 (はまだ・てつお)

    千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。

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