大矢明彦が佐々木&谷繁バッテリー誕生秘話を告白「シゲを使っていいか」 (3ページ目)

  • 木村元彦●取材・文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by Kyodo News

 ベイスターズに行ってくれというのはフジテレビからの依頼であった。そしてそれに応えさせたのが、大矢の類まれな義理堅さだった。大矢に課せられたミッションは、バッテリーコーチ(1993年-1995年)として、谷繁という若いキャッチャーを一本立ちさせることだった。

 当時、『プロ野球ニュース』で解説をしていた大矢の目に横浜というチームは、どのように映っていたのであろうか。

「正直、その当時のヤクルトとそんなに変わらないような感じで、Bクラスのチームというイメージでした。ただ、一つの魅力とすれば、大洋というカラーを破ってベイスターズという新しいイメージのチームを作るという、そういう初期のエネルギーがあったので、それはやりようによってはブレイクすると見ていました。もちろん、僕はバッテリーコーチでしたので、まずその仕事として、ゼロからいいキャッチャーを作りたいというのはありました」

 1989年に高卒ドラフト1位で入団し、5年目を迎えていた谷繁はまさにその格好の素材だった。

「肩もそこそこ強かったし、もともと持っている素質としての良さというのがあるから、あとは本人に教えて覚えてもらえれば、いいキャッチャーになるなとは思っていました。正直、肩が弱い子の肩を強くするというのは、難しいんです。せいぜいフットワークを良くするぐらいなので。ただ、プロのキャッチャーとして教えることは本当にたくさんありました。それでも正直、生意気かもしれないけど、自分の中では育てる自信はありました」

 大矢はまず谷繁のメンタルを鍛えるところから着手した。当時、周囲の関係者が下す谷繁の評価は、ポテンシャルは超一流だが、まだ気持ちの部分での成熟度が足らず、プレーにムラがあり、その素材の良さを活かすところまでたどり着けていないというものであった。到底、将来プロ野球史上最多出場試合記録を更新するような選手になるという見方はされていなかった。

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