「それは仙さん、筋が違う」山田久志は島野育夫の阪神移籍に抗議した (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by Kyodo News

 前後を挟む指揮官、星野や落合博満が強化や編成の実権を持たされていたことと比べればあまりにも対照的である。そして、フロリダ・マーリンズのケビン・ミラー獲得の失敗。

 メジャーで二年連続の3割を記録していた主砲とはすでに2年契約を交わし、支配下登録も済ましていた。ところが、ボストン・レッドソックスが横やりを入れる形で獲得を宣言、ミラーもこれに呼応して来日を拒否する。

 MLBはこの横紙破りを見て、実質的に理は中日にあるという立ち位置から、仲裁をせずにいた。だが、MLB選手会がミラーを支持し、この年に行なわれる予定であった日本での開幕戦のボイコットをチラつかせると、一気に腰がくだけて中日は契約解除に応じてしまう。

 実際、ガバナンスを破ったのはレッドソックスとミラーの方で、それはまるで日米外交の縮図を見ているような押し切られ方であったが、自由契約にするにしても山田には何の相談もなかった。

「最初に決まったと電話をいただいて、構想がもう自分の中であったんです。ミラーとゴメスを組ませて、そこに福留をはめてと考えて打線は形になったなと」

 しかし、それも画餅に帰してしまった。

 一方、2002年6月になると、すでに引退していたキューバのスラッガー、オマール・リナレスの獲得が親会社主導で発表された。

 中日新聞社にキューバとのパイプ確保の意図があったのであろうが、全盛期ならばともかく、すでにリナレスは野球ができる身体ではなかった。それでも「使え」という指令が来た。一塁しかできないということで、これで選手起用の枠がひとつ制限されることになった。

 結局、リナレスは日本シリーズでの活躍はあったものの3年間在籍して通算86本の安打数を記録して日本を去った。

 礎を築きながら、1年目は巨人に優勝を許し、2年目は星野阪神にぶっちぎられたことで、球団は山田に対して冷淡であった。

 2003年9月9日、勝率はほぼ5割をキープしながら、遠征先の広島で解任を告げられた。

 ホテルを出る際、見送りは誰ひとりおらず、選手に挨拶をすると自分で荷物をまとめ新幹線に乗り込んだ。グリーン車で名古屋に帰る途中、社内のニュースで「中日ドラゴンズの山田久志監督解任」という文字が流れるのを見た。

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