「箱根駅伝に出るなら1区しか無理」2年連続区間賞を獲った東洋大・西山和弥だが区間決定は消去法だった (2ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 日刊スポーツ/アフロ

 2年時も西山は箱根駅伝で1区を任された。ただ、前年の「ここしかない」という状態ではなく、2年のトラックシーズンは関東インカレ10000mで4位、5000mで8位、日本選手権10000mでは自己ベストで4位に入賞するなど好調を維持し、箱根は3区か4区という案が出ていた。だが、駅伝シーズンに入ると調子が下降し、「今年も1区だな」と監督に言われた。

「前半シーズンは好調だったんですが、途中から競技に身が入らなくなって......9月から練習を始めたんですが、出雲と全日本は間に合わなくて散々な結果で......(出雲は2区で区間6位、全日本は2区で区間14位)。メンタル的にもちょっと走れないなぁと弱気になったんですけど、チームメイトや監督、スタッフに支えられて12月に調子が上がってきたんです。これならということで1区の区間賞を獲りに行きました」

 西山は見事、1区区間賞を獲得。2年連続での快挙に箱根1区・西山が定着し、他大学は1区対策を講じるようになる。

 3年生になり、1学年先輩の相澤たちが卒業するシーズンになった。過去2年、往路優勝はしたが総合優勝には届いていなかったので、優勝して先輩たちを送り出したいと思っていた。だが、3年生になる前の1月、西山は恥骨の剥離骨折を患い、完治してからも思うような走りができずに苦しんだ。

「今までの陸上人生で一番つらかったのが、この3年生の時でした。自分の軸となる部分を故障しているので、変なところが力んで、スピードが乗らず、自分の思っている感覚と走りが全然合致しなくて......。出雲も全日本もぜんぜんダメで(出雲は1区で区間10位、全日本は5区で区間11位)、チームに故障者も出てきて。箱根は自分もかなり厳しいなぁと思っていたんですが、それは言えない雰囲気でしたし、自分の状態のことも誰にも相談できなかった。いけます、いけますって言って、結局、迷惑をかけてしまうことになるんです」

 そんな時、西山の支えになったのは、相澤の姿だった。

 相澤とは駅伝でほぼ毎回、襷リレーをし、大会などの遠征にも一緒に行く機会が多かった。

「相澤さんは本当の兄のような存在でした。遠征に行きながら、自分にはこういうところが足りないとか、こういうことをしないと上では戦えないとか、すごく面倒を見てくださって。箱根の前も自分のうしろ向きなところに対して『それじゃダメだ』というメッセージを相澤さんの背中から感じることができました。だから、なんとか結果を出して勝ちたかったんですが......」

 西山は自分の走りを取り戻せず、1区14位に終わり、チームは総合10位だった。

 相澤は、卒業の際、部屋で使用していたテーブルを西山に託した。当初は宮下(隼人・現コニカミノルタ)に渡す予定でいたようだが、西山は相澤から「これを受け継いでくれ」と言われた。

「相澤さんからの激励ですよね。諦めるなという言葉は直接言われなかったんですが、相澤さんの背中や行動から、そう言われているのを感じていました」

 テーブルの裏には、相澤のサインと「箱根がんばれ」という言葉が書いてあった。

 4年時は箱根7区(区間12位)を走ったが、一番印象に残っている箱根駅伝はこの時だという。

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