駒澤大の「谷間の世代」其田健也が明かす箱根駅伝。3年時は「先輩になんともして優勝して卒業してもらいたかった」 (2ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 長田洋平/アフロスポーツ

 其田の2年目は、部内で激しいレギュラー争いが起きていた。大塚祥平(現九電工)、中谷圭佑(元コモディイイダ)ら力のあるルーキーが入学してきて、部内の勢力図が大きく変化しようとしていたのだ。

「もう上も下も強すぎて、常に緊張感がありましたね。私たちの学年は、『谷間の世代』と言われていたんです。出雲駅伝は6人が出走するんですが、自分たちの学年からはひとりも入らなかった。かなりシビアで、きついですよね。だから、もう反骨心しかなかったです。すごく悔しくて、下が強いけど、俺らの代もしっかりと走ろうぜと団結していました」

 其田は自らの学年を引っ張り、箱根駅伝では10区にエントリ―された。出雲駅伝、全日本大学駅伝を制した駒澤大は箱根駅伝に勝てば大学史上初の3冠を達成することになる。其田は、その大事な箱根のアンカーに抜擢されたのだ。だが、レースは、駒澤大にとって厳しい展開になった。其田に襷が渡った時には、トップの東洋大と3分以上の差がついていた。

「レース前は3冠がかかったアンカーなので、すごいプレッシャーがありました。なんとしても勝ちたいと思っていたんですが、東洋大との差がけっこうあって......。ゴールした時、中村さんと村山さんが来て、すごく悔しそうな顔をしていましたし、チームメイトもみんな悔しがっていました。ふだん、そんなに悔しそうな表情を見せることがない先輩たちを見るとグっとくるものがあって、泣いてしまいました。この時、本気で3冠と優勝を狙うチームのアンカーを走ったことを実感してもっと強くならないといけない、先輩に恩返しをしないといけないと強く思いましたね」

 3年時、其田は箱根の優勝しか考えていなかった。中村と村山が4年生で最後の箱根になるので、なんともして優勝して卒業してもらいたかった。その前に立ちはだかったのは東洋大ではなく、ニューカマーの青学大だった。優勝争いを展開したが、其田の走る9区の時には青学大と8分以上の大きな差が開いていた。

「襷をもらった区間で区間賞を獲るのが最低条件だったので、そこは狙って走りました。でも、獲れなかった。区間賞を獲った青学大の藤川(拓也・現中国電力)選手との差を縮めても優勝できたかどうかはわからないですが、チームに勢いをもたらすという意味においても区間賞はしっかりと獲りたかったですね」 

 其田は9区3位、駒澤大は、総合2位に終わり、優勝を果たせなかった。中村、村山というエースがいたチームで優勝を思い描いていたが、果たせなかったことを其田は悔いた。ふたりへの思い入れが深いのには、理由があった。

「1年生の時、私は中村さんと寮で同じ部屋だったんです。中村さんは部屋で常に補強をしていました。誰も見ていないところでひとりで黙々とやっているのを見て、強い選手は誰も見ていないところでしっかりとやっている。そこに影響を受けて、私もやるようになりました」

 村山から学んだことも多かった。

「村山さんは、練習で一番チームを引っ張っていましたし、すごくコミュニケーションを取ってくださるんです。当時の駒澤大は上下関係が厳しく、下の学年は先輩に話しかけづらいんですが、村山さんから気さくに話かけてくれるんです。そういうことがいかに大事なことか学ぶことができました」

 ふたりから多くを学び、競技に対する姿勢を間近に見てきた。だからこそ、なんとしても勝ちたいという気持ちが強かったが、それを実現できないまま終わった。

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