ストロング小林vs猪木に日本中が熱狂。仕掛け人・新間寿、生前の小林の言葉で振り返る「昭和の巌流島」 (2ページ目)

  • 松岡健治●文 text by Matsuoka Kenji
  • photo by Tokyo Sports/AFLO

【新間は3カ月、小林さんの家に通い続けた】

 小林さんが猪木と対戦するために、国際プロレスを離脱した際に"動いた"のが東スポだ。契約違反で訴訟する姿勢を見せた同団体を説得するため、違約金1000万円を支払い、「東スポ所属」としてリングに上げたのだ。プロレスの試合を実現するために、新聞社が選手の身分を保証することは、日本プロレス史上でこの時のみ。プロレス報道を看板としていた東スポにとって、まさに社運をかけた一戦だった。

 この一戦を企画したのは、新日本プロレスの営業本部長だった新間寿だった。

 新間は猪木のマネージャーとして1972年9月に入社。当時のスターレスラーが猪木だけでテレビ中継もなく、新日本は1年間で約1億円の負債を抱えたという。1973年4月、日本プロレスの看板選手だった坂口征二が加入し、NET(現在のテレビ朝日)で中継が始まってからは危機を脱したが、ジャイアント馬場が旗揚げした全日本プロレスの後塵を拝していた。

 打倒・全日本で新間がひらめいた企画が「猪木vs小林」の日本人対決だった。新間は当時のことをこう振り返る。

「力道山先生と木村政彦さん以来、日本人対決はありませんでしたから、私のなかで『これしかない!』と確信しました。当時の私は、『どうにかして馬場さんの全日本を超えたい』としか考えていませんでしたから、馬場さんができないことをやってやろうと。その一心で小林さんの自宅に通いました」

 試合を実現させるべく、新間は小林さんが住む青梅に毎日のように通ったという。交渉は小林さん本人だけでなく、母親も交えた家族ぐるみの話し合いとなった。小林さんは当初、国際を離脱することにうしろ向きだったが、新間の情熱に心が傾き、対戦を了承する。初めて自宅を訪問してから3カ月を要したという。

「小林さんは自宅で5、6匹のマルチーズを飼っていたんです。最初に私が訪問した時は、ひどく吠えられましたが、何度も伺ううちにマルチーズも顔を覚えたのか、最後は私の膝の上で眠るまでになっていましたよ(笑)」

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