プロ契約を望んだ大林素子と吉原知子に「荷物をまとめて出ていけ」。解雇騒動のなか、救ってくれたのは三浦知良からの言葉 (3ページ目)

  • 中西美雁●取材・文 text by Nakanishi Mikari
  • photo by 日刊スポーツ/アフロ

三浦知良からの連絡

――その出来事は当時も大きく報じられましたが、あらためて振り返っていただけますか?

「その運命の日は、忘れもしない1994年11月30日。日立と話し合いが行なわれるはずだったのが、約束の時間になると私とトモだけが別室に呼ばれ、いきなり解職を告げられたんです。そして、『1時間以内に荷物をまとめて出ていけ』と。ふだんはいない警備員に抱えられるようにして運び出され、建物から追い出されました。

 私は自分でマンションを借りて住んでいましたが、トモは寮生活だったので住むところがなくなってしまい、私のところにきました。その後、日立の日本代表選手だった7人が、寮から抜け出して私のマンションに集まりました。わけがわからず、9人でただただ泣くだけでした。ただ、彼女たちを巻き込むわけにはいかない。ともに闘ってきた7人の選手には、『チームに残り頑張って』と別れを告げました。......と、いろいろと話せば長い物語もあるのですが......そこは、ね(笑)」

当時を振り返る大林さん photo by 立松尚積当時を振り返る大林さん photo by 立松尚積この記事に関連する写真を見る――しかしその後、イタリアに渡ってプロ選手としてプレーすることになりますね。

「解雇事件は各スポーツ紙の一面を飾りました。たくさんの報道陣に追いかけられ、『お金のためにチームに歯向かった』というネガティブな方向で書かれました。『女帝』『同情するなら金をくれ』などさまざまな表現をされましたね。

 そんななか、イタリアのアンコーナというチームからオファーが届くんですが、その時にカズさん(三浦知良)から連絡があったんです。『新しいことをやる時は叩かれる。でも、挑戦を続けていれば周りは絶対変わるから、来たほうがいい』と。もともとイタリアに行きたい気持ちはありましたが、その言葉に背中を押されて、日本人初のプロ選手としてプレーすることを決めました。

 トモも一緒でしたが、外国人枠の関係で彼女は別のチームに移りました。イタリアでの日々は本当に自分を成長させてくれたと思います」

――前例がないことですし、大変なこともいろいろあったんじゃないですか?

「そうですね。言葉も通じませんでしたし、なんでも自分ひとりでやらないといけなかった。立場としては助っ人外国人選手。私がイタリアに渡ったのは1月でシーズンも始まっていました。途中からの移籍になり、『私がチームを勝たせないといけない』という環境に身を置いてのプレーは痺れましたね。力強かったのは、カズさんの存在。試合後にトモと、カズさんとミラノに集まり、最高に充実した日々を送ることができました。

 日本にいた時は1日中記者に追われて、玉川上水をランニングしている時もマスコミが追いかけてきたり......犯罪者のような扱いだったので、それに比べればイタリアでの状況も大変だとは思いませんでしたね。世界のトップ選手たちとのプレーは刺激的で、ファンの熱気も肌で感じられた。『これがプロリーグなんだ』と。人生最悪の経験をしましたが、それが人生最高の経験をもたらしてくれたんです」

(連載6:切り開いたアスリートの新たなセカンドキャリア。タレント、舞台......今後も「たくさんの夢に向かって全力」>>)

◆大林素子さん 公式Twitter>>@motoko_pink 公式Instagram>>@m.oobayashi

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