元日本代表・山田幸代が明かす、ラクロスが2028年ロス五輪追加競技となるまでの経緯 ルールやプレー人数の変更など「柔軟に対応できた」 (2ページ目)

  • 永塚和志●取材・文 text by Nagatsuka Kaz
  • 村上庄吾●撮影 photo by Murakami Shogo

【五輪仕様ルール策定における紆余曲折】

――ラクロス界がオリンピックを目指したのは、どのような理由だとお考えですか?

「やはり、ラクロスをグローバルスポーツにしていきたい思いが非常に強いからだと思います。一番難しかったのが、男子と女子のラクロスでは『生まれ』や『育ち』が違うためにルールが全く違うこと。そこをうまくフォーマライズする(融合)役を私がやっていたのですが、オリンピックを通してルールをフォーマライズすることで世界のスポーツにしたいという思いがありました」

――通常の10人制とオリンピックの6人制では、同じラクロスといえど、かなり競技内容は違うのでしょうね。

「そうですね。ラクロスがまだどんなスポーツか浸透していないからこそ、変えるチャンスだったので、両方を面白いものにしていくというのが私たちの課題です」

――オリンピックで採用される6人制は、どこかバスケットボールに似たところがありますね。

「はい、私もルールを決めるメンバーだったので、6対6でバスケっぽくなっています(笑)。IOCから競技人数を減らせと言われて、私が女子のサブコミッティ(小委員会)のチェア(まとめ役)をやっていて、男子のコミッティのチェアがいて、このふたりの上にもうひとりがいて。その3人で、異なっている男女のルールを互いに寄せるなどしながら、ベースを作っていきました。

 フィールドの大きさについては私が決めました。でも、もうちょっと狭くしたかったんですよね。というのも、日本ではラクロスのためにフィールド(のスペース)を取るのが大変で、サッカーフィールド、また芝のグラウンドを借りることが難しいからです。

 ですから、フットサルコートが2、3面あるような広い場所なら日本でもたくさん練習ができるだろうなと思っていたので、もっと小さいフィールドを提案しました。ただ、小さすぎてもラクロスの醍醐味がなくなるので、70m(サイドの長さ、エンドは36m)というところに落ち着きました」

――紆余曲折があったのですね。

「ラクロスが主に欧米で盛んで、なおかつ私の第一言語が英語ではないこともあって(自然と中立的な立場の役割として)、『このルールを残してほしい』『これはこうしてほしい』といったさまざまな要望が私のところに来て、大変でした。

 なかには『ラクロスは10対10が面白いのだから、その形でIOCにプレゼンをしてほしい』みたいなことも言われて、驚きました」

――6人という人数も、決める過程のなかでは7人や5人など、他の可能性も話し合われたのでしょうか?

「ありました。最初は7人の可能性も話し合われていましたが、それだと多すぎるからフィールドのなかの5人とゴールキーパーひとりの6人にしようとなったわけです」

――オリンピック競技にするために、相当な労力を使われた。

「この4年、めちゃくちゃ大変でした。すべてボランティアでやっていましたし、やっぱり情熱がなかったらここまでできなかっただろうと思います。ミーティングも、アメリカやヨーロッパの時間に合わせてやることが多かったので、(日本時間の)朝の3時に、ということもざらでした」

豪州代表のトライアウト挑戦時の山田幸代さん(白) 写真/本人提供豪州代表のトライアウト挑戦時の山田幸代さん(白) 写真/本人提供この記事に関連する写真を見る

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