「能登に笑顔を 支えに感謝」石川県で被災した鵬学園高校サッカー部が奮闘中 (2ページ目)

  • 森田将義●取材・文 text by Morita Masayoshi

【富山県に移って集団生活】

 救いの手を差し伸べたのは、"サッカーファミリー"だった。帝京長岡高校(新潟県)の古沢徹監督や石川県内の高校から地震発生直後に連絡をもらい、近隣出身の生徒の練習参加を受け入れてくれた。他地域の生徒も赤地監督が連絡を取ったところ、全チームが練習生としての受け入れを快く引き受けてくれたという。

 並行して赤地監督はサッカー部が集団生活を送れる旅館を探したが、50人近い生徒を受け入れてくれる場所は、そう簡単には見つからない。学校近くの宿泊施設から順番に連絡を取り、最終的には隣の県である富山県射水市の民宿『青山 有磯亭』が受け入れてくれることになった。

3月までは富山県の民宿で集団生活を送った(写真提供・鵬学園)3月までは富山県の民宿で集団生活を送った(写真提供・鵬学園)この記事に関連する写真を見る 生徒の出費を抑えるため、富山第一高校サッカー部の元監督でモンゴル代表監督を務める大塚一朗さんの呼びかけで、『JA全農とやま』と『富山県生活協同組合連合会』が40人分以上もの昼食や米、野菜、肉などの食材提供を支援してくれたことも大きかったという。

 練習場所も北陸電力の協力によって、J3カターレ富山が利用するグラウンドが利用可能となった。

「旅館の方が受け入れてくださっただけでなく、グラウンドも使わせていただき、いろんな方に感謝する日々でした。サッカーができることが当たり前ではないと強く感じたので、みなさんに感謝してプレーしたい」と主将の竹内孝誠は口にする。

 2月3日から富山県での生活を送る一方で、並行してサッカー部の生徒が暮らす仮住まいの建設も急ピッチで始まった。学校の敷地内にあった勉強合宿用の棟を新2、3年生たちが生活できるように水回りなどをリフォーム。3月31日には慣れ親しんだ七尾の地にようやく戻ることができた。

 春から入学予定だった、新1年生への対応も大変だったという。推薦入試は1月13日で、願書の締め切りが9日であったため、地震発生直後に赤地監督はすぐ入学予定選手が所属するチームの指導者に連絡を取った。

「寮とグラウンドがダメになりました。見通しも立たないので、申し訳ないのですが、進路変更をするならすぐしないと間に合わない。選手と親御さんとすぐ話し合いをしてくだい」

 学校の現状を隠すことなく伝えた。多くの辞退者が出ると覚悟していたが、ほぼすべての生徒が「鵬学園でサッカーがしたい」と言ってくれたという。彼らを受け入れるための宿泊施設も無事に見つかった。

 新入生のひとり、小田創也は青森県からやって来た。

「震災が起きても入学の意思は変わらなかった。鵬学園高校でプレーすることによって、能登の人たちを勇気づけることができるかもしれない。それが自分にできるなら、全力を尽くして能登に勇気を与えたいと思った」

 そう口にするとおり、能登の地から全国大会出場を目指す考えは揺らがなかったという。

2 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る